夏の朝。
正確に言うと、夏休みの一日。
泰介は、眼が醒めるや勢い良く飛び起きた。
庭に面した一階の泰介の部屋。蒲団を蹴飛ばすようにして、立ち上がって歩いて、障子を押し開けた。
次の瞬間、ほっと彼は息を付いた。
明るくなりかけた夏の空の下、咲いていた。ヒマワリが。
背の高い、真黄色のヒマワリの花が、眠たげな泰介の顔を見下ろしながら、笑っていた。
しばし、泰介は、当然と見惚れた。
「あら、タイちゃん、早いのね?」
縁側の廊下を渡ってやって来た母の声が、泰介を現実に引き戻した。
「おはよう、母さん。」
「おはよう、あら、綺麗に咲いたわねえ。」
「う、うん。」
泰介の事を言っているのでもないのに、ちょっとだけ本人は照れくさくなったものだ。
「泰介の部屋の傍にも植えて良かったわ、綺麗な朝顔。」
母の視線は、竹の囲いにそってぐんぐん伸びる、朝顔の蔓と花々に注がれている。
「いや、朝顔も綺麗だけど、そりゃ。」
「じゃ、お母さん、忙しいから。朝ごはん、ちゃんと食べるのよ。ラジオ体操、行くんでしょ。」
エプロン姿の母は、また忙しそうに厨房へと向かう。そちらの方角から、味噌汁の匂いが漂って来た。今日の具は、茄子だろうか。
「うんってば。」
「ぐずぐずしていると、また、隣のトモ君が迎えに来るのよ?」
「来させとけよ・・・・。」
「何か言った?」
「うん。顔を洗ったら行く。」
慌てて、そちらの方角へと声を掛け、また向き直った。
ヒマワリ。
思わず、沓脱からサンダルをつっかけて、庭に降りる。サンダルが、ちょっとだけ、夜露に濡れていたが、構う事は無い。子犬のように、花咲くヒマワリの周りを廻って、はしゃいで喜んだ。
「咲いた。俺が蒔いたヒマワリが。咲いた。」
無性に嬉しい泰介だった。昨夜、いよいよ、蕾がほころんでいるのを確認してから、眠りに付いたのだ。どきどきして眠れないかと思ったら、昼間やった三角野球が良かったのだろう。すぐにぐっすり寝入っていった。
「あ、そうだ。後で父さんかお姉に、デジカメ借りて、記念写真を撮ろう。」
“あの時”のヒマワリが咲いた。それもこんなに立派に大きく。
ロシア・ヒマワリと言われる品種だろう、今は泰介よりずっと背が高い。学校で一番ののっぽは、何と言っても、体育教師の、小山田先生だろう。遠足や校外研修で観光バスに乗る時、身を屈めるようにして乗っているのを、何度も見た事がある。
「小山田っちより、大きいかな。」
ヒマワリが、こんなに綺麗な花だなんて、今日まで泰介は、よく知らなかったような気がする。
いや。
“あの時”のヒマワリは、もっと綺麗だった。何とも言えない良い匂いまでしていた。
匂い?ヒマワリの匂いが、どんな匂いかなんて、誰に聞いたら、教えてくれるのだろうか?
「あら、泰介、上手に出来たのね。」
いつの間にだかやって来て、泰介の隣に立った母が、目を細めて喜んだのは、大輪のヒマワリと、もう一つ。
今年のゴールデン・ウィークに、田舎の親戚の家へと家族総出で泊まりに行った。
雄大な山裾を仰ぐ、広い親戚の家は、泰介のお気に入りの場所だった。去年までは良く一緒に遊んだ従兄弟が、今年はクラブの合宿とかで家にいられないので、気の毒がって、伯父伯母とも、好物を食べさせてくれたり、釣りに連れて行ってくれたりしたので、泰介は、なに不満を感じる事も無く、元気一杯、大自然の山懐で、遊びまわったのだった。
なかでも、彼が喜んだのは、笹舟を作る事だった。どんな素晴らしい工作も、それを使って遊べなければ、その面白さと魅力は半減する。
伯父の家の真向かいには、小川が有った。足を浸せるくらい浅かったが、小さな笹舟一つを流すのには充分だ。
田舎の朝は早い。鶏と一緒に朝ご飯を食べている気がする位だ。
泰介には、大きなお鍋で作る味噌汁が、とても珍しい。おたまも、特別な物に思えて来る。
「泰ちゃん。お代わり、いらないの?」
伯母さんが、何くれと無く、世話を焼いてくれようとする。
「姉さん。この子なら、大丈夫だから。」
母が見かねて、口を出して来た。
「男の子だから、もっと、食べられるわよね?」
いつもの会話と聞き流しながら、泰介を口をもぐもぐ、今日の計画を練っていた。
笹舟を、昨日作った、彼の笹舟を、今日は流すのだ。・・・ちょっとは、食糧も持って行こうか。
「泰介。今日は、一人で遊べるか?」
隣に座った、父が聞いて来た。
「すまんな、泰ちゃん。健が、今日は合宿から帰って来るから。」
本当にすまなそうに、向かいに座った伯父さんが言った。
「そしたら、明日は、言った通り、キャンプに行こうな。」
「瀧が有るんでしょう?」
姉が待ってましたと口を挟んだ。
「野枝子ちゃんは、行った事無かったか。そうか・・・。最近、出来たっけ?あのキャンプ場は、お前?」
「市が買い上げたのが、三年前でしょ、あなた?」
大人達の会話を右から左へと聞き流しながら、泰介の心の目には、別な流れが見えていた。
それは、きらきら輝きながら、彼の造った彼の笹舟を載せて、運んで行くのだった。未だ見ぬ場所へと。
本当に、一人で大丈夫かと聞いて来る伯母の声を、背中で受け流しながら、泰介は、勢い良く、外へと飛び出して行くのだった。しっかりと、大事そうにその胸には笹舟が抱かれていた。
そうっと。乗せる。指の先に、清水が冷っこい。そうっと、乗せる。真っ直ぐに、倒れないように。乗せる。進水。そして。泰介は呟いた。
「出航。」
何処かで、バッタが驚いて、跳ねたかも知れない。彼の声の真剣さに。しかし。
ゆるゆると。泰介号は、川面を、進み始めた。
泰介もついて歩く。くるくると、船が回転する。泰介も立ち止まる。
船が進む。泰介が歩く。そうして。
どの位、歩いたのか、見失うまいと追いかけ続けて、くねくねした流れを辿って、背の高い、草を掻き分けて、泰介が最初に見た物は、真っ白な、麦藁帽子だった。
麦藁帽子には、同系色の、薄い布地のリボンがかけてあった。リボンはさらさら、風に靡いて、それ自体が、一輪の花の様。
いや。事実。泰介の眼には、花にしか見えなかった。だから、麦藁帽子を被った人が、振り向くなんて、考えもしなかったのだ。
「あら。」
ずっと、年上のお姉さん。泰介はそう思った。
「この笹舟?」
薄い黄色のワンピース。長いくるくるとした髪。ほっそりした手には、彼の笹舟が、泰介号が乗っていた。
「ああっ。」
泰介は、声を上げた。
「どうして・・・。」
「うん。あのね。」
彼女は、少しだけ、屈んで言った。その顔は、にこにこと笑っていた。
「其処。泉が有るでしょ。あそこで、引っ掛かっちゃったのね。くるくる廻って、可哀想だったから、つい。」
「そうだったのか。」
渡された笹舟が何だか、頭をかいているように、泰介の眼に見えたのだった。それから、
「うわあっ。」
辺りを見回して、泰介はもう一度、声を上げた。
なだらかな斜面の、丁度てっぺんに、泰介達は立っていた。此処から、市街地が見渡せる。もこもこ動いているのは、鉄道だろうか。それより、泰介の注意を奪った物は、斜面全体に咲く、
「ヒマワリ?!」
でも、今、五月なのに。泰介は思った。
「あの人が、好きな花なの。」
彼女は言った。ヒマワリの林の中で、小さな子供のように幼く見えた。
「ずうっと、此処で、待っているの。」
「あの人って?!」
泰介は聞いた。
沢山のヒマワリに囲まれて、沢山の年月を、ただ黙って、ヒマワリみたいに待っていたのだろうか。そう思ったのだ。
「優しい人だったの。喧嘩が大嫌いで、議論が好きな人だったわ。童話が大好きで、親孝行な人だった。」
「ふうん。」
うなずいた泰介の顔をにっこり見つめて、彼女は言った。
「坊やぐらいの年の頃よ、私とあの人が、初めて出会ったのは。」
「ふうん。」
もう一度うなずいてから、泰介はふと思い付いて聞いた。
「笹舟で遊んだ?」
「勿論。」
風に、ともすれば飛ばされそうになる麦藁帽子を片手で押さえながら、彼女は彼方の空を見上げた。
「笹舟で遊んだわ。私達。紙飛行機だって、模型飛行機だって、飛ばして遊んだ。」
「仲が良かったんだね。」
泰介は、ようやく納得した。
「そうね。坊や。」
彼女はやっぱり、笑って言った。それから、ふと真剣な顔になって、
「私達、とてもいつも、仲が良かったわ。だから、ここにヒマワリを植えて、二人で将来の夢を語り合った場所に二人の思い出の花であるヒマワリを植えて、あの人を、忘れまいとしているのよ、私。」
泰介には、ただ、うなずく事しか出来ない。自分でも、そう、思ったのだった。
キャンプは盛況だった。思い掛けなく、合宿から帰って来た従兄弟ばかりか、近所の小中学生も集まって、晴れた夜空に、キャンプ・ファイアーの火の粉が上がった。
「母さん。あそこ。」
帰りがけ。電車の中から、泰介は見た。あの丘に佇む少女と、彼女を護るが如くに、そびえ立つヒマワリの花を。確かに見たのだった。
あの時。少女は自分にも種をくれたのだ。泰介は家に帰った後、庭に種を蒔いた。
種は芽を出し、ぐんぐん伸びて。今。花開いている。美しい、黄金色の花を。
「綺麗だな。ヒマワリ。」
泰介は、もう一度、呟いた。
「泰介。」
その時、姉の呼ぶ声が聞こえた。
「智久君、来たよお。」
泰介は飛び上がった。
「いつもより、早い。あ。ドラクエ、貸す予定だっけ?今行くう。」
息子の去った後、母はもう一度、しみじみと、息子の部屋に広がった、絵の道具と、描かれた絵を見た。
「綺麗だこと。・・・ヒマワリと。女の子?麦藁帽子を被った。変に、全体像を描かない方が良いって言うけれど、この場合は、アップを描いて成功したわね。笑っているのが、解るわ。」
絵の具を二三、絵の具箱に戻すと、母親は立上がった。
夏の朝は早い。そして、あっと言う間だ。家族の朝ご飯が済んでから、外に打ち水をして来よう。
誰もいなくなった庭に、早起きのヒマワリが、ゆらゆらと、朝の風に吹かれて、揺れていた。
* The End *
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