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「やあ、坊や。」
蝉の声に背中を押されるようにして。
木製の、小さな扉を押して入ると、麦藁帽子の下から、陽に焼けた顔が出迎えてくれた。ごつごつした大きな手には、ビニールホースを手に持っている。放水口近くの鮮やかな色合いは、すると虹だろうか。
僕は、おじさんの満面の笑みより何より、足元に咲き誇る、真昼の花々に気を取られていた。
「良く来てくれたね。綺麗だろう?おじさんが丹精した花は。」
僕は、精一杯、大人びた子供と見られたくて、慌てて両手を身体の後ろに組んだ。却ってつんのめりになり、威厳を取り繕おうとしながら、
「綺麗だね。」
ありきたりの事を言った。だが、それは、事実、その通りであったのである。他に何と言えば良かったのだろうか。
「本当に、綺麗だ。」
その情景を何と言えば良いのか。足元には、白とピンクと赤の素晴らしい花園が、庭一杯に開けていたのである。
七月の太陽の下、そよそよと風が吹き、ぎざぎざの小さな葉を持つ花は、団扇ででも仰ぐように、葉を枝ごと揺らしていた。
甘く爽やかな香気が漂う。縁側には竹で組んだトレリスが見られ、これも大輪の紫色の朝顔が、これは早、萎れかけていた。
「この花、薔薇だよね?」
そう聞くと、おじさんは、にこにこしながら、答えた。
「いいや。ハマナスだよ。」
遠くから、潮騒の音が響いて来た。何だか、別の世界にいるようだと思った。
海の近くのこの街で、花の好きなおじさんに僕が出会ったのは、早朝の事であった。
と言っても、早起きの僕が、海辺を彷徨っていたら、偶然気の合う人に出会って、なんて、小説やドラマの中に有るような状況じゃなかった。
忙しい僕の父が、やっと取れた夏休み。母と妹と僕は、父より早く、父の車に乗り込んだ。海の傍に佇む白亜の宿。
それを一目見た時、僕達は一斉に歓声を上げたものだ。父も嬉しかったのではあるまいか。僕達は、沖釣りの話をした。父と僕は。夜釣りの話も。
暗い夜の海の底から、星の如くに輝くホタルイカが何百何千と浮かび上がる様子を、父は話してくれた。
「凄いぞ。一度見たら忘れられない。特に星の綺麗な晩は、どっちが空だか海だかわからない。」
正直言って、イカやタコは好きじゃない。特に、食べるのなんか、まっぴらだ。
でも、生きているイカやタコは、とっても、ロマンティックだと思う。
おじさんに出会ったのは、ホテルのロビー。何だか宿泊客の人達が、きゃっきゃとはしゃいでいる中、ホテルの従業員の人達が、男の人達は紺、女の人達はオレンジの半被を着て、忙しそうに走り回っている。
このホテルの名物、特産物や産地直送品を取り扱った、朝市だ。
近隣の人達が、自慢の野菜類や惣菜、時には稲荷寿司やおにぎり等を売りにやって来て、ぴかぴかに磨かれた床の上に、露店を並べるのだ。
僕は、買い物には興味が無い。早起きも苦手だ。
でも、充分かつ存分に砂浜ではしゃいだ僕達家族がチェックインの時、カウンターで急に眼を輝かせた母が、言った物だ。
「まあ、宅急便も有りますの。」
潮の匂いをさせながら、母がサラダの、お浸しのと叫んで、僕に当たり前のように荷物持ちをさせるんでなかったら、僕は、朝市に永遠に、縁が無かったかも知れない。そして、おじさんにも。
宅急便の係りの人達と母が話し込んでいる間、僕は、ぶらぶらと見損ねた商品の群れを見に行った。母に付き合っていたんじゃ、とても、全部をゆっくりと見る所では無い。
その内にお腹が空いて来た。母に聞いておかなければ、朝食は部屋で食べるんだっけ?それとも、ロビー横のレストランで家族揃って食べるのか、と。
そう思って、踵を返した時、鮮やかな色彩が眼に飛び込んだ。
何でそれまで気が付かなかったのか。
見た事も無い程、大輪の朝顔が目に飛び込んで来た。艶やかな青い色で、中心から端っこまで、白いラインが星か、それこそ朝の光のように、放射状に花弁を彩っている。
朝顔は鉢に植えられていた。他に幾つもの朝顔の鉢が有り、色取り取りの姿も様々な朝顔がある事を、僕はこの朝知った。
「坊や、一つ、どうだい?」
ディレクターズ・チェアに座った、男の人が言った。ロビーの中なのに、麦藁帽子を被っている。顔は、すごく陽に焼けて、帽子のつばの下から、真っ黒い眼が僕を覗き込んでいた。
「宅急便で送れるの?」
僕は聞いた。あの、青い色のが良い、でも、真っ白のも捨て難い、と思いながら。
「送れない事も無いが、何でそんな事を聞くんだ?」
おじさんは聞き返して来た。
「しおれちゃ、可哀想だと思って。」
「ほう。」
おじさんは笑った。ように、見えた。
「坊やは、花が好きなんだな。良い事だ。」
僕は、当たり前だと思う事を正直に口にしたに過ぎないのだが、そう言われると、そんな気もしてくるから、不思議だった。
「どうだ。おじさんの家に、花を見に来ないか?もの凄く綺麗だぞ。」
白い小さな四角い紙。名刺を手渡された。えっ?!とびっくりしたけれど、裏を見るように促されて、ひっくり返すと、其処には地図が印刷されていたのであった。
小さい四角はこのホテル。大きな矢印がさす場所に、おじさんの家、と言った具合に。
僕は、ちょっとの間、迷った。明日は、ワニがいる植物園、とかに行く予定になっていた。明後日には、帰る予定だし。まだ海に入り足りない。
「明日。行くよ。」
僕は言った。どのみち、十歳にもなった男の子が、自分一人で行動出来ない訳も有るまい。
人工のプールや池で泳いだりひなたぼっこをするワニとか、エンジェル・トランペットの沢山垂れ下がった、大きな花と株には、パンフレットの写真で見た時から、あまり興味を惹かれなかったし。
間も無く、朝市もお開きになり、僕は朝顔を買っていなかった事を、その時になって思い出した。しかし、心配する事は何も無かった。おじさんの朝顔は、とても人気が有るらしく、露店を片付けた人達が、朝顔の鉢を買って帰ったりしていたからだ。
僕は、母に呼ばれて、朝食を食べるべく、家族のもとへ歩いて行った。
今日も暑くなりそうだ。そう思いながら。
「ハマナスって、棘(とげ)が無いの?」
僕は、うっとりと顔を紅い花に近付けながら、先刻から不思議に思っていた事を聞いた。
「ロサ・ルゴサには、棘は無いよ。」
おじさんは事も無げに答えた。ハマナスにも学名が有って、ロサ・ルゴサと言うのだと僕は既におじさんから教わっていた。
「知らなかった。薔薇は皆、棘を持っているんだとばかり、思っていたから。」
おじさんは、声を上げて笑った。また風がそよいで、ハマナスが花を揺らした。
「薔薇の仲間は、林檎や梨もそうだし、桜もバラ科だ。しかし、棘は無いよ。」
ニコニコ笑いながら、ホースで水を撒き続けている。花が嬉しそうだ。僕は心の底から、そう思った。
「あえて言えば、ロサ・バンクシアエ・・・モッコウバラにも、確かに棘は無いな。」
「ふうん。そうなのか。」
そうこうする内に、家の奥から、綺麗に切り分けられたスイカの皿を持って、おじさんの奥さん・・・おばさんがやって来た。ムームーの良く似合う、素敵な女の人だった。
縁側で、花を見ながら、スイカと麦茶を御馳走になった。
「明日、帰るって?」
おじさんが大きな一切れにかぶりつきながら、聞いて来た。
「うん。」
僕は頷いた。そんな事言わなきゃ良いのにと思いながら。
大きな手が僕の頭を鷲づかみにして、わしわしと撫でてて来た。夏の風の様な掌だった。
おじさんは言った。
「今日来てくれた御礼に、良い物を見せてあげような。」
おばさんは、ただ、おじさんの傍らで、にこにこと笑っていた。花のように。
妹は、貝殻の詰め合わせを買った。宝物にするのだそうだ。僕は、ボトルシップを買った。真っ白な四本マストがとても気に入ったのだった。
チェックアウトの時、ちょっと驚いたのは、本当に従業員の人達が、入り口まで二列全員並んで、
「有難う御座いました。」
と、一糸乱れず御辞儀しつつ言ってくれた事。
妹なんか、目を潤ませていた。・・・気難し屋のこいつがこうだと言う事は、来年も此処で決まり、かな?何よりの証拠に、エントランスを出るなり、自分の荷物片手に、くるっと振り返り、言った物だ。
「お兄ちゃん。何てホテルだっけ?此処?」
と。
かねてからの予定通り、帰りは父のリクエストで、郷土の歴史資料館に寄り、隣の和風レストランで名物の船盛を食べることになっている。
意外に子供向けに楽しめる内容のアトラクション(三葉虫の化石の地層モデル、とか)等もあり、僕たちは、陽の落ちる頃、すっかり満足して父の車に乗り込んだ。
「帰りは、こりゃ、夜中だな。」
父は笑いながら言った。バックミラーを見ながら。
後部座席に着くなり、母と妹は、もたれ合うようにして、眠ってしまっている。僕は、助手席にいて、道路と平行に続く、水平線を眺めていた。
不意に。どーん。どーん。と。音がした。
「花火だ。」
僕は、彼方を見透かし驚いて言った。打ち上げ花火だった。
「今日は、花火大会だったか?!」
父も驚いていた。現金なことに、母と妹も、音に驚いて飛び起きたらしく、窓枠にしがみ付くように、花火を眺めている。
だが。何がなし。その花火には、奇妙な点が有った。
打ち上げ場所は、何処だろう?あんな場所に陸地が有ったのだろうか?
青い花火が打ちあがった。大輪のスターマイン。中心から白い火花が放射状に伸びて行く。
ピンクの花火が直ぐに続いた。ゆったりと開いて行く。火花までかぐわしい香りがするようだった。白い花火が後にあがった。藍の夜空に純白の大輪。しかも、持続時間が長い。
僕は、僕らは、うっとりと見つめるだけになっていた。
その後も色とりどりの花火が形も様々に、景気の良い打ち上げ音と共に、しゅるしゅると、中空に次々に打ちあがって、花より短い、一瞬の命を散らして行く。大空に。そして。
「紅い、花火。」
僕は、信じられぬ想いで呟いた。
「ほう、これは珍しい。」
傍らで父が感嘆して呟いた。
僕は言った。
「ハマナスだ。ロサ・ルゴサだ。」
勿論これは、何処かであの人が、おじさんが打ち上げている花火なのだ。僕に見せてくれようとして。
僕は、既に確信していた。一瞬たりとも、その事を、疑わなかった。
* The End *
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