「他に方法は無いの?」
彼女が聞きました。美しいすみれ色の瞳には涙がにじんで潤んでいます。
「無い。」
彼はかぶりを振りました。その凛々しいが、今は疲れ切った顔は万策尽きたと知らせています。
彼女、シリルは両手で顔を覆いました。そうすると、こげ茶色の長い髪が滝のように身体の両側へ雪崩れ落ちていくのです。
その肩を抱きもせず、彼は納屋の丸太椅子に腰を下ろしたままでした。
「どうしようもない。僕は戦へ行く。」
灰色の瞳を彼女に据えたまま、アンソニーは言いました。
彼の許婚シリルは声を上げて泣いたのでした。
解っていた事でした。解っていたからこそ、彼女は泣いたのでした。
「鋤や鍬を持つ貴方の手が、剣や弓を持つなんて、其の手で、戦をするなんて。とても信じられないわ。」
彼女の嘆きは、一通りではありませんでした。しかし。彼女一人だけの嘆きでも悲しみでもなかったのです。
其の日、近隣の村々は同じ嘆きを抱えていました。
悲しみの雨が、尽きる事無く、国中に降り注いでいたのです。
昔々。
隣り合う、二つの王国が有りました。
国境近くには、広い頂上を持つ丘がそびえ立って、視界をさえぎっています。この丘は、草も木も余り生えないので有名でした。
国境線で接し合う二つの王国には、どちらにも王様が一人、王妃様が一人、王子様王女様がこれまた一人ずつ、と大変に良く似ておりました。
西の王国は大麦やえんどう豆を多く産し、東の王国は小麦と大豆の産地として近隣諸国に良く知られていたのです。
どちらの国も緑豊かで川の水はきれいで豊富、小さいながらも港を持って、夕食の卓につけば、王様や貴族達では無くても、美味しい魚が食べられます。
いつの頃からでしょう?西の王国の住民達は、東の王国の国民達に、馬鹿にされている、と思うようになりました。西の王国は工芸が盛んです。木や石に彫り物をする事にかけては、西の王国の職人に、並ぶ者が居ないと言われる様にまでなりました。
「東の王国の住民は、我々を嫌っているようだ。あんなの子供だましだと。」
いつの頃からでしょうか?東の王国の国民達は、西の王国の住民達に、軽蔑されているのではないかと感じるようになりました。ただ広い麦畑を、雑草を抜いたり、悪い虫を取ったり、毎日毎日農作業に精出す内に、
「麦の事しか知らない、学問も無い、そう思われているようだぞ、我々は、西の王国の住民達に。」
本当にいつの間にだか、これが、お城の王様の考え方にまでなっていたのです。どちらの国でも。
昔は、季節毎の野菜や花籠を積んだ荷車が行き交う関所であり、東西の商人の連絡場所でもあった、最早近付く者も居ない国境で、或る日、起こった小さな喧嘩は、やがて、立派な戦になるまでにさほどの時間すらかかりませんでした。
どんな小さな火種からも、容易に火事が起こせるのが、これで解りますね。
でも、戦は大変に大きな力を必要とします。この場合は、沢山の人達を兵士として、都に有るお城の軍団長の元に集め、戦場に送り出さなければいけません。
国中にお触れが下され、健康な若い男性は皆、兵士にならなければ行けない事になってしまいました。
他人と争うはおろか、戦うなどと生まれた時からただの一度も考えた事の無い若者達が、血で血を洗う戦場に駆り出されたのです。
母親、恋人、妻や姉妹の嘆きは、一通りでは有りませんでした。
せめてもの事は、東の王国は、跡取りの王子様も前線に出されるらしいと言う噂が、シリルやアンソニーの居る村にまで、届いていた事、しかもどうも確実らしいと言う事、西の王国の前線将軍は、西の王様と同じ苗字である事、だからどうも一粒種の王子様では無いかと言う話が伝わっていた事でしょうか?
だからって、アンソニー達、村の若者達が戦に出なければ行けない事は、少しも変わり有りませんが。
春の豊饒を願う村祭が終わった晩、今年の花の女王に選ばれたのは、シリルでした。子供達の為に沢山のベストを編み、綺麗な刺繍を刺したのが、選ばれた理由でした。此処何年か村の女性達の結婚式のドレスは、シリルが花や森、泉や仔鹿や小鳥などの綺麗な刺繍を施した物が多かったのです。
明日には、アンソニー達は都へ戦場へと出かけて行きます。やっとお祝いと励ましの言葉を次々に口にする村人達から離れて、自分の家で一人になったシリルはそっと、ふところからいい匂いのする小さな布袋を取り出し、それを持って、アンソニーの家へと急ぐのでした。
アンソニーは家にいました。
「シリル。」
灯りの下で、亜麻色の髪が、うなだれた顔から、跳ね上がりました。大きな椅子に座って、こちらを見ています。
「アンソニー。これを持って行って欲しいの。」
シリルは懐から絹で作った紐の付いた小さな布袋を取り出し、そっと彼の無骨な掌に乗せました。
「私が作ったの。御守りよ。」
「中を開けて見て良い?」
アンソニーは聞きました。シリルが頷くのももどかしげに、紐を掴んで袋の口を広げます。彼の目が大きく見開かれました。
「これは。フローリリアの花じゃないか。一体どうして。シリル?」
良い匂いを放つ其の花は、願を叶える力を持つと、この東の王国では古くから伝えられているのです。
「必ず、無事で帰って来て、アンソニー。待っているわ。」
「約束する。」
今度こそ、アンソニーは力強く、頷きました。
晴れ渡った空の下、アンソニーの加わった東の王国の軍隊は、整然とした隊列を守って、行進して行きました。
戦場になる場所は、国境の丘の上に広がっている台地と知らされて以来、彼等は緊張して何ごとも喋らず、ひたすらに歩き続けました。
「いよいよ、この丘を登ると、敵に相見えるぞ。」
彼等の隊長が言いました。
「進め!」
指揮棒が振られ、全員一斉に丘を駆け上って行きます。アンソニーも皆に遅れまいと必死で走りました。腰でカチャカチャと剣が鳴り響きます。
ああ。けれど。丘の頂上で待っているものを思うと、吐気がして来ます。
前に居た同僚が止まっているのを見て、彼も足を止めました。敵は、何処にいるのでしょう?
彼は見回し、足元を見て、呆然としました。
「フローリリアの花?」
「だが、この花は、大変に貴重で、滅多に無い筈だ!」
誰かが叫んでいます。隊長でしょうか?
彼等の前には、大地一杯に花の絨緞が広がっていました。
フローリリアの花。フローリリアの蕾。フローリリアの葉。フローリリアの苗。フローリリアの匂い。フローリリアの・・・。
丘の上一杯のフローリリア。
見ると、地平の彼方に、黒と黄金色の軍服を着た人たちが手に手に武器を持って、呆然と立ち竦んでいます。間違い無く、敵軍西の王国の兵士達です。アンソニーが所属している東の王国は白と白銀色の軍服なので、直ぐに解りました。
どうやら、戦意を喪失しているようです。もっとも、それは、友軍である東の王国の兵士達だとて、同じことのようでしたが。
東の王国の国民達に取って、フローリリアは願を叶える花であると同時に、神聖な花でした。王国の行事にも無くてはならぬものとされているその花を、大事な戦とは言え踏み荒らすのは、大変に躊躇われるものだったのです。
しかし。
アンソニー達は、いえ、東の王国に住む殆どの人たちは知りませんでした。
事情は、西の王国にとっても同じだと言う事を。
西の王国の国民にとってフローリリアは、傷薬に良し、飲み薬に良し、万能薬だったのです。
其の上大変に貴重で数が少なく、おりしも国王陛下自らが、みだりに取ってはならぬ、栽培に成功した家には褒美を出す旨、お触れを出した程です。
双方の軍が戦う気を無くしたのも、当たり前であると思えましょう。 これが機会とばかりに、二つの王国に仕える戦争に反対する人達が、歩み寄りと休戦協定を、それぞれの国王に提出したのは次の日でした。
やがて。アンソニー達が家に帰る日がやって来ました。
夕闇迫る中、シリルは、泣きながら、アンソニーを出迎えて、
「お帰りなさい。」
と言ったのでした。
「夕暮れなのに、良く、僕が解ったね。」
笑いながら、彼女の婚約者は言ったのでした。
「ただいま。シリル。」
やがて、花嫁衣裳を彩る花は、春の宵闇の下匂やかに、何処かでひっそり咲いている。
ブーケにそっと忍ばせて、貴方の幸福祈る花。貴方に幸あれ。守る花。
めでたし。めでたし。
* The End *
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