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『早く早く早く。』
何かに急き立てられた声がします。
暖かな、心安らかな眠りの真っ最中に、少女はふと目を覚まし、上半身を持ち上げ、辺りを窺います。薄暗がりの中、椅子やカーテンや本棚と、何時もと変わらぬ自分の部屋が見えるだけでした。
暦が替わっても、未だ寒い底冷えのする夜の中、楽しい良い夢を見ていた筈なのに、今は何も覚えていません。唇に張り付いた微笑みは、何を意味するものなのでしょうか。
『何ちゅうこっちゃ。何と言う事だ。』
『急げや、急げ、ほい、急げ。』
目覚めても、尚、声は誰かを、何かを急き立てます。
少女の知らない声です。
「誰かしら?…何かしら?」
少女は、今や、完全に目が醒めました。ぶるっと身震いしつつ、お気に入りの毛糸のカーディガンを引き寄せ羽織ります。 部屋は真っ暗です。星の光が射し恵むのは、分厚いカーテンに遮られないと言う条件付です。
声は部屋の暗がりから聞えるのか、それとも、
「窓の外?」
そう想った途端。
ばたばたばたばた。
何かが、窓硝子にほんの一瞬、影を映し、急ぎ足で通り過ぎて行くのでした。
それは、大きな四足の動物で、逞しい背中に、大きな二枚の翼を負っているようにも見えたのです。
一体、何が少女の窓に、影絵のメリーゴーラウンドを映し出してしまっているのでしょうか。何が起こっているのでしょうか。
いつしか、彼女は両手を胸の飾りボタンの所で、揉み絞るようにしていました。
『忙しい、忙しい。忙しい、忙しい。』
今度は一人や二人では有りません。
『ああ、あれも足りないこれも足りない、しかも、ああ。』
男の人、若い、女の人、もしかしたら、
『このあたしの準備が出来ていない。』
少女の年ぐらいの、男の子達、女の子達、貫禄の有る声は、
『まあ、落ち着け。順番通りにやれば、大過無い。』
多分、お祖父さまかお祖母さま位の年齢の、声。声。
少女は、そうっと、辺りを見回して、兎にでもなった積りで、耳を澄ましました。
そうすると、ぴかぴかに磨かれた長い廊下の、しいんとした気配が殊更に良く彼女の部屋にまで伝わるようです。
家族は誰も、起きて来ないのでしょうか?
『ドレス、コルセット、熊手に、杭打ちハンマー。』
『花火、お菓子、パチンコ、玩具の木馬。…鵞鳥の羽根ペン!』
こんなに賑やかなのに?
「お母さまは、昼間、いやと言うほど、沢山のジャムを作って、壜に詰めていらしたわ。お父様は、牧場の柵を修理するのが、作男達の力を借りても、夕食の時間までかかっておられたのだし。」
少女は呟きました。
成る程、それで納得しました。家族は、皆、お母さまの代わりに夕食を作っていたお祖母さまも、勿論、お父様の野外に出ている間、家をしっかり守っていたお祖父さまも、疲れきって眠っておられるのです。
それなのに。一体誰が、何者が騒いでいるのでしょう?
意を決して、ふわふわしたアンゴラ兎のスリッパに、足を入れると、彼女はすっくりと立ち上がって、出窓の所まで行き、掛け金を外しました。
空飛ぶ鳥の二枚の翼が開くが如く、窓が開きます。その勢いに負けじと、今度は冷たい空気が、外の匂いと相争うようにして入って来ます。
意を決して彼女は呟きました。
「おお、寒い。」
夜気は冷気と湿気を帯びて、重く冷たく、彼女は肩を両の腕で抱きました。そうせずにはいられなかったのです。
『ほうい。ほうい、ほい。ほうい。』
「誰?何処にいるの?」
少女は問い掛けました。
けれども、返事は無く、ただ、
『まだかな、まだかな、まだかな?』
大勢の人たちの何かに急き立てられている様な、けれども楽しげな声が辺りに響くばかりです。
何と真っ暗な夜でしょう。凍て付く星の光も見えます。夜の暗さと冷たさのあまりに、星の光さえも凍り付いているのです。
『もうすぐ、もうすぐ、もうすぐ、もうすぐ。』
『今年の椅子は、何処だ?』
『どれでも良いや、一番近くが良い。』
『王子様は、もうすぐ、来られる。立ちんぼにしてしまう積りか。』
『いつまでも立たせたままにしておくな。』
『到着なされたぞ。』
『花冠が目印だ。』
それは、何と喜ばしい声。かすかに、子馬のいななきが聞こえます。
ふわりと、良い香り。幾つもの花の香りがブレンドされた匂いがするのです。
『この森に。おお。この森にか。』
『花冠を額に戴いた、子馬にお乗りだ。』
『いらされた。』
『ようこそ。王子様。』
『王子様。ようこそ。』
しんと静まり返った木立ちの奥から、不思議な声が響きます。遠くに。近くから、その声達は聞こえて来るのです。
『無事、椅子に御着席なされたら…。』
『始まる。始まる。始まる。』
『今年も。今年もまた。』
少女には、何の事だかさっぱり解りませんでした。でも、心臓の鼓動と、思い出した様に時折聞える鳥の声が、少女には何よりの友に思えるのです。
お気に入りのアンゴラ兎のスリッパを踏み鳴らして、今は彼女も待ち望んでいました。何かが始まるのを。
冷たいつんとした霜の匂いに、彼女は思わず鼻をうごめかしました。
わあっ。
少女は目をしばたきました。森の奥が、光ったと思ったのです。暖かい色の光に、彼女は沢山の松明を連想しました。
興奮した幾つもの声を、彼女は聞きました。
『樫の樹の椅子だ。樫の樹の椅子だよ。』
『王子様は、樫の樹の椅子をお選びになられた。』
『去年は楡の樹の椅子だった。』
『私は、ユリの樹の椅子だと思ったのに。』
息も付かず、見守る少女の顔を風が掠めます。でも、もう、寒さも気になりません。声達の興奮が乗り移ったのでしょうか。
『来た。来た。来た。』
『やっと。やっと。やっと。』
『あ、座った!!』
一瞬、辺り一面が、稲光の如くに白い光で包み込まれました。
少女は思わず知らず、遠くなる霞がかかった意識の中で、呟いていました。
「覚えておいてね。私もいたのよ。」
眼が醒めた時、時刻は朝。
晴れた空と太陽が、カーテンを透かして輝いていました。
少女は、倒れたりなどしておりませんでした。何時ものベッドにきちんと、夜着を身に付けて、いつものように、眠っていたのです。
でも。彼女にはすぐ、解りました。
彼女ばかりではありません。森の周りに住む全ての人達が、感じ取っていたのです。
今朝は、何もかもが、どこか、違う感じです。ちょっと、では無く、完全に。完璧に。
一々、例を挙げるのが面倒な位。強いて言えば。
例えば蒼空。あんなにふうわりと柔らかで、触って見たくなるようでしたか?
例えばお日様の光。透明で、黄金色で、まるで、蜂蜜です。
嬉しくなって、少女は、深々と息を吸い込みました。御馳走の様な空気を。
少女が王女様の如くに気取って食卓に付くと、お父様が仰いました。
「おはよう。ニーシャ。」
「おはよう御座います。お父様。」
少女は笑顔で朝の御挨拶をしました。
忙しく、家族全員のスープを取り分けている働き者のお母様を横目で見ながら、お父様は、
「やっと、寒冷前線が、海の上で、温帯性高気圧に変わったよ。これで天気も小康状態だな。」
新聞を手に御自分の娘に微笑み掛けました。
「まあ、そうなの?お父様。」
笑って答えながら、少女は思いました。
(新しいスリッパを出して貰わなければ。)
幾等何でも、アンゴラ兎では困ると言うものでは有りませんか?足が汗だらけになってしまうでしょう。
そして。
「いただきます。」
バタートーストをぱくり。
けれど。少女は知っています。
いつ。春が来たのかを。どうして。春が来たのかを―。
昨夜の出来事は、誰にも言わない積りでした。彼女が大きくなっても誰にも。
ともかく、隠し事は、理由があるからこそ、するものなのです。
今の内から、来年の、とある、寒い、どきどきするであろう凍て付く星の夜の事を思い浮かべ、つい、両親の前で微笑んでしまう、彼女なのでした。
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