「『折れた矢』。あんたの事を、そう呼んでいるんだってな。」
村の馴染みの居酒屋で。
彼の座る、分厚い木のテーブルに付いた、金髪の男は、そう言った。
それから、若干慌てた風に、こう、付け加えた。
「この村の、何人かは。」
云われた方の若い男、即ち、いつの間にだか金髪の同年代の男と相席を余儀なくされた彼は、黙って、スープをスプーンで口に運んだ。
周囲に広がる深い森。長い事番人を務めて来た彼だったが、森の見回りの後は大抵腹が空く。
この、パイプの煙がもうもうと漂う食堂を兼ねた店内が、彼のダイニングルームであった。もう、長い事。
「この雉肉、美味いな。」
金髪の男、エイデスは言った。あまり、自分の言った事を、重大な事と思っていないのかも知れない。彼は、そう思った。
「森で、毎日、何をしているんだ?!」
エイデスが、言った。黙って見ていれば、大した健啖家だ。この調子で三日も有れば
、この店のメニューを全て、制覇出来るかも知れない。
「なあ、ウィンロッド。」
「何をって、色々だ。」
名前を呼ばれて彼は、顔を上げた。視線の先で、緑色の瞳が、親しげに輝いている。
この村からは、山を二つ三つ越えなければ行きつく事の出来ない、都で大々的に執り
行われた自治領選抜の弓剣競技会で、彼は、弓の部で一位を取った。
隣の伯爵領において見事優勝を果たしたのが、この金髪の男、エイデスであった。
「色々ねえ・・・。練習は、いつ、やっているんだ?!」
「練習?!」
エイデスが彼の暮らす村に現れたのは、彼の帰還のほぼ三日後であった。何処で調べ
たのか、旅籠に泊まる用意までして来たと解った時には、驚くのを通り越して、
呆れ果てたウィンロッドであった。
「弓だよ。決まっているだろう。ほら、あれさ。」
と言って、壁に立てかけてある、長い麻袋を指で指し、若干、唇を曲げた。
袋の入り口は、太く白い麻の紐で以って固く、きっちりと、結わえらていた。
「随分、俺の事に興味を持つんだな。」
今度は、ウィンロッドから話し掛けてみた。
エイデスの服装は、正しく、一目見て間違えようの無い、都の騎士の服装であった。
長剣を手挟んだ帯と言い、輝くロングブーツと言い。ただ、剣帯が背中まで回って、
弓矢を装着出来る場所を作っている所が、少々違うかも知れない。
遠くから憧憬の目で以ってこっそりと、こちらを見ている男女の多い事。二十人はい
るか。
「悪いのか?!」
心から意外だと言う動作を、エイデスはして見せた。
「珍しい。」
悪びれもせずウィンロッドは答えた。
競技会で一位を取るまでは、ただの森の番人に過ぎなかった自分に、誰かがこうして
興味を持った事に、何だかこそばゆい思いをしている彼であった。
「さーて。明日は俺様も、森の見回りなぞして見ようかな。」
一向に埒があかぬと見たか、エイデスは立ち上がって、帳場に向かった。そんな言葉
を冗談めかして口にしながら。
「案内が必要だぞ。・・・”古き大地の森”では。案内人がな。」
ぼそりと、ウィンロッドが言った。
「そん時ゃ、あんたに頼むさ。」
もう一つ、都の正式騎士とも思えぬ軽口を叩きながら、エイデスは、月の明るい路地
へと出て行った。
後に残るのは、黒い髪に灰青色の瞳を持つ、無口な森の番人が、喧騒と湯気の中で、
一人黙々と、食事をする情景であった。
”折れた矢”。
弓矢を常時携帯していながら、それを使う様子を誰も見ていない。少なくとも、口の
端に上るほど頻繁には。そんな彼の様子に、誰かが、付けた渾名である。
露草から露が零れ落ちる様子を、見たことが有るだろうか。
都に帰ったら、知り合いに何を土産話としようか。
次の日の朝。エイデスは、そう、考えながら、本当に、眠たげな小鳥達の鳴き交わす
森の中を歩き回っていた。
もとより、怖いもの知らずである。幼い時に、親戚の子供達の中で一番早く馬に乗れ
たほどの運動神経の持ち主である所の彼には、街も森もその危険度に於いて、
一緒であった。
少なくとも、これまでは。
彼は、立ち止まって、考えた。
「森番小屋まで、もう少しかな。ウィンロッドは、非番では無い日は早起きだと聞い
たから。」
これまで、立て札通りに来たと言う自信が、彼には有った。
軽く踏み鳴らされた小道の前方に立つ白い人影を認めた時にも、彼は、相手に挨拶し
ようとした程である。
その、女は、ゆっくりと、こちらを向いて、邪悪に、微笑んだ。
ほっそりとした長い髪の淑女の唇に、牙が生えているのを発見した彼の驚きは、
筆舌に尽し難い。しかし。右手で素早く弓をつがえ、背中の矢筒から、左手で
矢を抜き出して、射る一連の動作は、彼の第二の本能と呼ぶべきものであった。
当たった。相手の中心に。
その時、新たな衝撃が、エイデスを襲った。
「ばかな。通り抜けた。」
女は、ゆらりと身体を持ち上げて、空中浮揚し、エイデスに迫った。
ぎしり。嫌な音がした。女が長い爪で以って、エイデスを襲ったのだ。左の二の
腕に、熱い感覚が走る。
彼は、舌打ちして、身を避けようとした。避けきれない。すぐ其処に居る女が、
口を開けた。牙のある口。
「エイデス!」
しゅん、と、清水の噴き出す音に似た涼しげな音と共に、見覚えのある白と茶の
だんだら模様の矢羽が、女の胸に突き刺さっていた。
「どうして・・・。」
エイデスは、信じられない思いに、其処に佇んでいた。
駆け寄って来て、彼の身体を抱え込む、逞しい腕の持ち主を、彼は、疑わなかった。
「大丈夫か?!」
「借りが出来ちまったな。ウィンロッド。」
もう余り、鈍重にも見えぬ灰青色の瞳を綻ばせて、照れくさげに笑うウィンロッドの
顔が其処に有った。
「だから、“古き大地の森”と、そう呼ばれているんだ。」
医者の治療が住んだ後、寝台の傍らの椅子に腰掛けて、ウィンロッドは説明した。
「成る程。一つ勉強になったよ。」
横たわったままの、エイデスは頷いた。
「今日あんたが会ったような、悪いものばかりでは無い。本当に、妖精や精霊も、
俺は見たことが有る。」
流石に仕事に関した内容のせいか、ウィンロッドの口調は流暢なものであった。
「うん。」
「普通の弓矢や剣では駄目なんだ。先刻、俺が使ったようなもので無いと。」
「特別なものなのか。」
エイデスは聞いた。
「まあ、な。」
「そうか。」
不意に眠気に捉われ、エイデスは両目を閉じた。
「全く、何が『折れた矢』だ、よ・・・・。」
「おい、眠ったのか。食事を持ってこさせようか。」
都には多分、こんな珍しいタイプの人間は、少ないだろうな、と言う、何がなし、
明るい気分を憶えながら、彼は、ウィンロッドの言葉を聞いていたのであった。
* The End *
PR