その扉の前で。
実際は五秒と無かったろう、ほんの短い時間。あたしは、此処に来る前、朝の、身支度を整える為(乙女のたしなみ)、洗面所に立った時の事を思い出していた。
後で聞いたら、ラエラは何故か、生まれて初めて入った(連れて行って貰った?)ファスト・フードの店や其処の店員の制服の色とかデザインとか、香ばしい小さめのバンズから、パテと一緒にピクルスがはみ出していた事とかを思い出していたらしい。
四角くシンプルで、飾り気の無い鏡に映ったあたしは、いつものあたしだった。
頭の周りでぐるんぐるんと渦巻く、ナチュラル=カールのヘアは、首筋を通り越して、毛先は背中に届いている。ヘアバンドも何も頭に付けないと、其処までは長い。黒髪に少しずつ混じった金色メッシュは天然の、自前のもの。いやに成る程濃く蒼い瞳は、丸く見開かれて、自分を見返している。
不本意ながら、中肉中背。バランスは取れている方だと思う。何たって、ラエラの178cmに対して、あたしの身長は、169cm。10㎝近く違う。下手をすれば、頭半分って言う所。彼女がのっぽなの。
【ざけんな、この。顔洗え。】
おお、こわや。耐えられないわね。この、凶暴さ。
(ルウ。今日も、頑張るのよ。)
とにかく、頭を覚まさないと。それも早めに。
あたしは、そもそも、サプリメントと言う奴は好きになれない(多分、義勇軍だって食べない)。まだ、ミルクとバナナの方がましと言うものだ。で、冷蔵庫を開けて、その二つで簡単な朝食とした。
「あ。・・・ラッキー。」
思わず、声を上げて、感謝。
ヨーグルトが残っている、て、ことは、何?ラエラが昨夜、何かだべりながら、あたしの冷蔵庫に関わらず、出して食べていたのは、『飽きた』とか言っていたミルク・プリンの方だった、って、事?…今となっては、どうでも良い事なのかも知れないけれど。
ミルクは、新鮮で美味しかった。
うーん。ダイエット・メニューとしては、OKかも知れないけれど、任務の真っ最中にお腹が鳴ったら、何としよう。
これから会う、“司令官”の人間性に期待するとしよう。
お世辞にも、楽しい朝食の席になるだろうなどとは予測を出しかねるが。
あたしは、皮製で幅広のヘアバンドをクロークから出して、額の上から首の後ろにいたる部分をくるりと纏めた。よし、身が引き締まる。
「“行動する人間として思考し、思考する人間として、行動せよ。”か。」
【アンリ=ベルクスン?…どうしたのよ?】
「あんたが、読めって言ったんじゃなかったっけ?」
あたしは、忘れ物は無いか確かめながら、言い返した。それと。
一旦、自分の部屋を見回す。これは儀式だ。だが、必ずまた、この部屋に、あたしは帰って来る。
さて。あたしは、自分の部屋のドアを開けた。出て行った後、鍵を掛けて封印する為に。
《大異変》の後、世界で雪崩現象的に、人間が減った(じゃあ、大事にすれば良いのに。)。その一方で、人口比に対して、一時的にせよ、増えた人種(職種か?)が幾つか存在する(この辺は歴史の授業でも習った。)。
その内の一つが、自警団であり(これは何故か解るよね。武器を持った事の無い人間でも、持たなければ行けなくなるような事態が頻発したのだ。彼らは主に、街や村の境界線で活動し、活躍した。)、もう一つが、もともと在った各国軍隊の生き残り達が寄り集まって組織し発展した、現在もそれぞれの地域名を冠した軍隊に所属する義勇兵或いは、職業軍人である。
“司令官”は、後者の出身であると言う。どのような数奇な運命(或いは事情)が、あの人を、この基地のほぼ唯一に近い、責任者としたのか迄は、あたしは、詳しくは、知らない。
義勇兵、或いは義勇兵で構成された義勇軍だが、これは、各地でほぼ、平行的に編成された事になる。
簡単に言うと(時間も無い事だし)、自警団が自分の本来所属する街や村以外の所に行って活動すると、“義勇兵”と呼ばれ、時間の経つにつれて、暴徒や集団略奪の爆発的に増加するにつれ、それに対抗する為に、各地の義勇軍同士は連合し、やがて、当然の成り行きながら、正規の軍隊(上記の通り)と、連絡を取り合うようになる。今では、正規軍と義勇軍の両方に所属している人間は稀だが、一時は相当数に上ったらしい。
とにかく、ノックだ。あたしは、右手を胸の辺りに持って行った。軽く、二回、叩く。
雨の日に聞いたら、さぞかし、さっぱりするだろう、渇いた音が、これも、二回、響く。
「どうぞ。」
ラエラは、いつもながら、『入りたまえ。』と言われたと主張し、あたしは、『どうぞ(プリーズ)。』としか、聞こえなかったと反論する、他のメンバーは、『開いている。』と言われたとして、論争に加わる、あの、有名な肉声が響く。
細やかな手が、ドアを開け(あたし達は、扉に触る必要すら、無い。)、何歩か、これも、まるで、小学校の校長室のような、木製の正方形のパネルを組み合わせたはめ込み床を歩く事によって、あたしたちは、“司令官”に相見える事になる。
闘牛場の牛の如く?文化祭前の学生のようにだ。
(決して、悪い事は致しません。学校に迷惑もかけません。だから先生、或る程度の自由は、認めて下さるでしょう?)
ドアを開けてくれたのは、勿論、“司令官秘書”だった。ミス・チェンバースは、きっちり纏められた銀髪を、ちょっと後にはねのける様にすると、また、“司令官”の傍らに据え付けられた、自分専用のデスクへと戻って行った。あたしは、ちょっと、彼女が好きなので、肩を少し上げて見せて、挨拶代わりとする。それがつうじたのかどうか。彼女は、コンピューター端末のキーボードに走らせる指を、特に休めようともしない。いや。一瞬だけ、それも、彼女のボスの命令で、顔を上げる。
「ベレニス。二人に、座る場所を、椅子を用意してくれないか。」
「はい。」
椅子?
ほぼ、音も無く、床から、二人分のソファが起き上がって来た。“司令官”から、自然な動作でそれを勧められるまでも無く、これは、と、思う。
【話が長くなるらしいよ。ルウ。朝食は、食堂の仕出しだね。ミス・ベレニス=チェンバースの手作りじゃなくて。】
黙れ、ラエラ。ソファは、良くクッションが効いている。
『ないか。』が無ければ、軍人の命令口調。などと、自らの置かれた状況を揶揄している場合じゃない。あたし達は、“司令官”に対面していた。
彼は、特に特別な事をしている訳では無かった。硝子の花瓶に形良く瑞々しく生けられたバラやガーベラなどの花々は、彼が日常の仕事をこなしている真っ最中である、象徴のような物だ。生けたのはやはり、ミス・チェンバースかな。そうだろうな。
仕立ての良い厚手のスーツを着て、綺麗に撫で付けられた半白の髪を七三にした彼は、誰が言うまでも無く、外見だけなら街の小学校の校長先生が、一番ぴったりと合っているだろう。…詳述したい所だが、あたしは、第一印象と言う奴を、決して馬鹿にして言っている訳じゃない。
時には、それが、相手の内面や本質をずばり、言い当てている場合だって有る、と、言いたい位だ。
何なら、現在過去未来を、其処に言い足しても良い。
そう。にっこり笑って誉めて貰えれば、どんなに嬉しいだろうと、生徒も両親も思うような校長先生。誉めてもらえる材料なら、沢山有りそうなものだ。テストの点数。工作の出来。スポーツの試合の応援だって良い。
窓を、野球のボールに割られたって、叱るのは、あくまでも、ボールを取りに来た本人達の為であり、体罰に対しては、眉を顰める、そんな、普通の人生だって、彼には、有り得たのかも知れないのだ。…当面の問題には、何の関係も無いが。
「お早う。」
柔らかな口調で、“司令官”が口を開いた。良く響く声が、部屋一杯に拡がって行って、最後にあたし達の耳に届く。大木の葉ずれ。深山のせせらぎが、固い岩の傍らを、丁度行き過ぎる瞬間に立てる物音。
彼の声を形容すれば、そんな所か。
机の上で、両手を組んだままの姿勢を変えずに、あたし達二人を、少しばかり観察している様子。モノクルが、朝の光に煌めいた。両目以上に『物を見る』と、既に義勇軍時代に評された、失われて久しい、右目を覆う義眼の代わりも務める、白銀のモノクルが。
僅かながら、髪と同色のまばらな髭の下に微笑を浮かべている。或いは、思ったより早く、我々が到着したので、機嫌が良いのかもしれない。我等が“閣下”には。
「朝食は済んだのかね?二人とも?」
「簡単に。」
と、あたし。
「未だです。」
と、ラエラ。
一瞬、あたしは、視線を窓枠の傍で微風に翻るカーテンの方向に泳がせた。まったくもう、料理は、下手をすると、あたしと同じ位、上手な癖に。
【いや、それって、『料理』と言うものの、概念の方向性からして間違っているから。“基地”内でランキングを作るとかって。】
何だか、困ったような、ラエラの聲。
それは、良いから。話に入りましょう。所で、オムレツにかけるソースは、ベシャメルより、トマトが良いな。
「考慮しよう。」
手元のミニ端末(勿論高性能)に、オーダーを打ち込んでいる様子に、あたしは内心、小躍りした。
うわぁお。予算節約。その上、手作り。止めは、会食よ、ご会食。
【2、3の点から、それ、変。】
よっぽど、暇なのか、現時点で任務について考えるのは、もっぱら、あたしに任せているのか、ラエラのどうでも良さそうな指摘が遣って来る。
【まず、明らかに“朝食代”も予算内。あと、街の食堂に、オート・シェフを期待しない方が良い。…やっぱり、個人差だから。手作りの方が安価だ(やすい)し。市民は宇宙飛行士じゃないし。これを会食と認めたら、“ボス”は一日何回食事をしているか、知れたものじゃないと思う。】
ところで、“オート・シェフ”が、ロボットの料理人あるいは、ボタンを押したら、温かな料理が出て来る機械(!)の事だと思っている人、いるのかな、まだ?ただの、ワン・プレート・ミールの事だから。高分子系のディッシュ・プレートの上に、ラップがしてあって、レンジで温めて食べる奴。味?悪くは無いんだけれど、栄養バランスも考え抜かれているんだけれど、うーむ、正式な晩餐には、ちょっと、向かないメニューだと思う。
【あんたは、あたしに、突っ込みの採点でもして欲しいわけ?】
【あら、いつ批評家になったのよ。あたしの沈着にして、芸術的なまでの、知性的感受性を。】
訳の解らん。何処のポケットに仕舞っておいたのよ、そんなもの。知性的感受性?
て言うか、有った所に返してらっしゃい。
【どう言う意味よ、それは、ルウ?】
【あんた、子供の頃から、ポケットが沢山ある服が好きだったから。】
【それこそ…。】
「待ちたまえ、二人とも。」
“無言で”一触即発の危機を迎える所だったあたし達に、実に良いタイミングで、ボスの仲裁が入った。
冷水を、バケツに一発ずつ、浴びせかけられたように、あたし達は、はたと、我に帰った。気まずそうに、お互いを見遣る。時間を無駄にする所だった。
ボスが“エース”クラスの“耳”を持っていなかったらと思うと、ぞっとする。
【“司令官”でしょ、ルウ。】
そう、“司令官。”閣下に敬礼。二人同時に。
「失礼しました。」
と、あたし。
「申し訳有りません。」
と、ラエラ。
“良い子”になろう、と、何度目かの決意をする。立ち上がって、我々の傍にまで来ていた彼は、敬礼と同時に、机を回って、再び、着席する。
「良かろう。朝食を食べながらと思ったが、任務の説明に入ろう。」
当然、予測されてしかるべき事だったが、それでも、言われた瞬間、背筋が凍り付いたように固まったのが解った。少し、身体がもぞもぞと動くのを憶える。
“任務の説明”。
これを聞く事が即ち、“基地”のメンバーズへの任務そのものの投下なのだ。
聞けば、つまり、後戻りは出来ない。聞いた事によって、自動的に、任務そのものに、組み込まれる事になる。
イエスかノーかを、自然に答える事に、なっている訳だ。
で、あたし達がどうしたかと言うと、肯いた。
「はい。」
と、あたし。
「どうぞ。」
と、ラエラ。
他に、どうしろと?
刹那、室内に、目に見えなければ、耳にも聞こえない溜息のようなものが、何種類かの密度を持って、漂い、頭上換気ダクトに吸い込まれるようにして消えた、ように思った、多分、気のせいだろうと、思う。
これは、任務なのだ。食わせて貰って、着せて貰って、寝かせて貰って、此処まで育てられて(高い)教育も授けられて、その上、宗教の自由まで許して貰って(今の世の中で出来得る限りの)、その上、何を望めと?
とうに、答えは出ている。
あたしは、ルウだ。エルドリスだ。
隣りで、黙って(これが珍しい位に静かに)肯いた人間がいる。ラエラだ。小憎らしい程に、落ち着き払って姿勢良くソファに腰掛けながら。
あたしは、こいつが死んだら、或いは、何かの理由で遠くに去った場合、その日の内に、楽器を全て叩き壊すかも知れない。
上記の仮定項目だが、有り難い事に病気や怪我以外を思いつかない。…ここまで読めば解るだろうけれど、“基地”内には最高の医療が約束された病院がある。建物そのものは、国内最高の規模大きさとは言わないが。
ミス・チェンバースの、忙しく働いていた指の動きがぴたり、と止まって、室内に、キーボードの音が絶えた。静寂が訪れる。
それが、合図になったかのように、“司令官”が口を開いた。
「“市街地”に於いて、行方不明になった人間がいる。探し出して欲しい。」
別に、殊更呼吸を合わせた訳ではない。ただ、時々、こう言う事が起きる。
あたし達は、同時に、動いた。立ち上がり、最敬礼したのだ。一糸乱れぬ動きで(うぬぼれでは無いと、思いたい。)。
「了解。」
と。
/to be continued.....
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