夏の終わりの海。
人気も閑散として来た砂浜で。
貝を拾った。
小さな小さな、私の手の爪ほども無い、淡い緋色の桜貝。
手の上で、体温に馴染むでもなく、ひんやりと自己を主張するでもなく。
何だか、とても、気に入った。
街に帰ったら、ペンダントか髪飾りに加工して貰おう。
ペンダントなら、銀の鎖か皮ひもを使いたい。髪飾りなら、糸の様に細い、小さなヘアピンで。
その思いつきすら、気に入った。思い出を形に出来る。
来年、再来年、私は、桜貝を見る度に、今年の夏を思い出すだろう。空の色を波頭のきらめきを、寄せては返す、波打ち際の音楽までも。
思い出せるに、違いないと思った。
桜貝から、これも淡いほどにあえかな、潮の匂いがする。
帰ったら、ああしよう、こうしよう、と計画を立てて、余りしんみりせずに、海辺の町から帰宅したせいだろうか。
次の朝。櫛一つ、無くしているのを発見した。解いた荷物の何処からも出て来ない。
黄楊の櫛。古風にキスゲの彫り物が彫ってある。軽くて固くて、持ち良くて、重宝して、気に入りの櫛だった。
私は真っ青になった。あれは、ただの品物と違う。
私が、母にさんざ、ねだって、やっと、譲ってもらった物だ。母の娘の頃と今では、職人も何もかも、技術も違うから、同じ品物は、二度と現れまい。
また、注文製造など、考えも付かなかった。
どうしよう。どうしたら、良いのだろう。
宿に電話して見た。次の朝。折り返しの電話が来た。結果は、ネガティブだった。
私が住んでいるこの街とは、河の上流と下流の関係にある、あの海辺の町の、何処かに有るだろう、私の櫛が、忘れられて、夜露に濡れ、或いは、潮溜まりのどこかを漂っている夢を、私は見た。
いくら何でも、泣きながら、眠った、とは思えなかったがしかし、その次の朝は、起きしなから、頭が痛かった。
でも、何も食べないわけには行かず、軽い朝食を作る。
トーストを食べながら、青い空を見上げた。さて、仕事も無い。洗濯掃除を軽くやっつけて、今日はどうしよう。朝から横になるか、それとも。
食器棚のガラス戸に、私の編みこむ前の長い髪が見えていた。私は、何とはなしに溜息を洩らした。
気分が鬱屈して来たら、私には行く所が有る。
つばの狭い麦藁帽を被って、川辺に行く。
住宅街から程よく離れていて、近くに喉を潤せる場所もある。
せせらぎの傍で、キバナコスモスが群れ咲いて、残暑の蝉が鳴いている。私の赤い目が、水面に映っていた。
今日、二度目の溜息を付いた。
その時だ
緑色のものが、水面に浮かんでいる。
それと、白い細いものが、流れの上に突き出ているのが、見える。
緑色の丸い物体は、少しずつ、大きくなる。違う、頭だ。
白く細いもの。それは。指だ。白魚のような指とは、このことだ。
緑色の髪、長い髪、水滴をまとって、何と綺麗なのだろう。
猫のようにつり上がった、深緑色の二つの瞳。エメラルドのようだ。
私は、岸辺の草の上、座り込んだ。全身ががくがくと震え、次には力が抜けて行くにつれ、そうするしかなかった。
白い細長い指は、華奢な手、たおやかな肘、丸みを帯びた肩へと繋がっていた。
私の居る所からも、水面下、ちょうど彼女の腰の下に、緑を帯びた銀色のきらきらする鱗が見えた。それらにびっしりと覆われた、二つに割れた尾鰭も。
人魚だ。
にっこりと微笑む。貝殻の歯なんて言葉が有るが、貝殻とはこんなに生き生きしているものなのだろうか。こんな時だと言うのに、つい、私は、思う。
私に、笑いかけたの?!
水の下から、もう片方の手を取り出す、水しぶきすら、彼女を覆う、ケープのよう。
程なく、私の視線は彼女本人では無く、彼女が取り出したもの、私の櫛に注がれていたのであった。
そう云えば、海辺の町に行った時、土地の漁師の御好意で、漁船に何人かで乗せて貰った事が有った。網にかかっていた、鮮やかな緑色の小魚。沢山の他の魚に混じって、デッキの上で跳ねていた。
私はつい、つまみ上げて、海に逃がしたのだ。皆、笑っていたけれど。
「有難う。」
私は、渡された物を受け取って見た。確かに間違いない。私のものだ。彼女を見た。
「本当に、有難う。」
笑っている。嬉しそうに。
私の頭の中で、閃く映像が有った。その映像は、銀鱗のきらめきを伴っていた。その時。私の疑問が言葉になったのだ。
「この為にわざわざ?!川を遡ってくれたの?!あの海から、此処まで。この川辺まで。」
ぱしゃり。小さな水飛沫が立った。彼女は姿を消していた。あっと言う間に、遠ざかる。
「良い櫛ね。。。。」
細く、鈴を振るような、黄昏れ色の声と共に、一瞬だけ、水面から突き出した手が、小さく振られたように思ったが、良く解らない。
私は、河のほとりでいつまでも、櫛を抱きしめながら、立ち尽くしていたのであった。
夕暮になるまで。
* The End *
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