鏡の中の”私”は、いつも、笑っている。
出来たら、そう在って欲しい。
いつでも、朗らかに、優しく、温かい(或いは涼しい?)自分でいて欲しい。
鏡と言う言葉は“鑑”に通じる。
鏡の中の私は、お手本。そう在るべき自分のあらまほしき姿。
「だから、何でそうなるんだよ。」
自分の、ちょっと長めの茶髪をがりがり書きながら、江藤君が、心底苦り切った声を上げた。
・・・・・少なくとも、私には、それが本心であるように思えた。
「これで、三回目でしょう。」
対する私も負けてはいない。先生に提出する課題のプリントは、今日までなのだ。
忘れて来たからと言って、クラス中で、彼一人が提出しないで、日直当番が横向いて知らん振りでは、何の為のクラス代表だか、わからない。
だから、そう言ったのだ。彼に。周囲ではクラスメートが何人か、固唾をのんで、事態の成り行きを見守っている・・・気がする・・・。
「課題はやったよ。たださ、今日持って来たのは、古いルーズリーフな訳。
新しい方に挟んじまったから。」
「それは、先刻、聞きました。」
私の返事は、にべもない。
「池内。マジ言っている?!戻って取って来いって。」
「家まで、片道十五分って、言っていたじゃないですか?!」
「まじかよ・・・。」
私と彼の向かい合っている教室。二人の横の方に、そんなに離れていない所に何だか、赤い顔が見えたから、ちらりと目を遣ったら、掃除用具入れの隣に、大きな姿見。私の横顔だったらしい。
赤く、紅潮した頬。激昂している、と言うよりは・・・・何だか。泣きそう。
きつい、と思われているのは解っている。
彼の自転車で十五分かかる家まで、たった一枚のガリ版刷りのプリントを、取って来いって言うのは、果たして何処まで、日直の権限として、“学校”と呼ばれる、一つの社会の中で受け入れられる、許容される範疇に入るのだろう。
もっと、はっきり言うと。
これは、イジメなのだろうか?!それとも、イヤガラセ?!
しかし。
「昼休みに行けとは言いません。」
江藤君の、男子テニス部副部長の目を丸くした顔が目に入る。
「放課後に行って来てください。」
「おいおい。」
勘弁してくれよ、と言わんばかりに、彼の口が開かれるのも構わず、私は続けた。
「私は教室で待っていて、一緒に職員室に行きます。」
一瞬。教室が、しん、となったような気がした。でも、少なくとも、江藤君は気にしなかったらしい。
「あのなあ。子ども扱いすんなよ。提出ぐらい、自分で出来る。」
と、言ったから。
因みに、私は、吹奏楽部である。ブラスバンド部。フルートなぞ吹いている。今日も、当然、練習があるが。
シネマ・メドレーのおさらいより、『士官候補生』の総合練習より、今は、日直のお仕事の方が、大事だと、そう思うことにしたのだ。
一日の終わり、ブラスバンド部の指揮者でもある、顧問の先生の、五回に及ぶ駄目出しにより、見も心もくたくたになった私達だった。メトロノームさえ、『もういいよ、もういいよ。』と、聞こえて来るから、怖い。
でも、私は、何だか、顔が綻んで来る(にやけて来る!?)のを、抑えるのに精一杯だった。フルートの音が、変になってしまいそうで、慌てたものだ。
音楽室から、正門を潜って、江藤君が、走って帰って来るのが見えた。テニスコートのほうから、何人かが手を振った。それに手を振り帰して、彼は、正面玄関から、職員室へと向かって行ったようだった。
自分の家に辿り着いてからも、私は、今日のことを思い返すにつけ、これで良かったのかとそう思った。
私は、他人に厳しすぎるのだろうか。
私の手から、髪を梳いていたブラシが落ちた。ことりと音がした。
全身から、血の気がすっと引いていくのを覚え、お腹の底が、冷たくなる。
何で今まで気が付かなかったのだろう。教室の掃除用具入れの隣には、鏡なんて、無い、のだ。
初めから。
・・・じゃあ、あの時、私は、何を見たのだろう?!
もう一度、真正面から、鏡台の鏡を見据える。あした、学校に行きたくなくなるほど、怯えているのにも関わらず。
何故だろう。
その顔は、私の顔は。
極く自然に、静かに微笑んでいるようにしか、見えなかったのだった。
* The End *
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