晴れ渡った冬の空。雲一つ無い。
中空には、ぴゅうぴゅう木枯らし。
並木道のポプラの木と木の間を、鴉が羽根を広げて飛び渡り、イチイの茂みから、おっかなびっくり、三毛猫が顔を覗かせた。
並木道の向こうに、白亜の建物。両脇には、枯れ葉一つ落ちないように、清掃が行き届いた駐車場が有る。
冬の陽射しを、縦にも横にも、幾つも並んだ窓硝子が、うらうらと跳ね返している。磨かれた硝子の表面には、白い雲が動くのが映ったりもする。
屋上に、大きな看板。看板には、“国立総合病院”の文字。住宅街の外れで、市内中央部の大通りにも近い。閑静な佇まい。
窓の幾つかには、カーテンの横に、タオルが掛かっているのが見えた。入院患者の物だろう。
外来の待合室にいる人々の一人が、マフラーに包まれた顔を、ぶるっと震わせた。
寒い。顔が赤い。風邪を引いているのだ。薬を貰いに来た。長引くようなら、注射も辞さない積りでいる。
師走の忙しい時期、何で平日の真昼間に病院に来なければならないのだろう。苛々する。早く帰りたい。
否。
受付カウンターの右手、ぴかぴかに磨かれた廊下の天井から下がる煌々と輝く、緑色の立方体。非常口への表示を見ながら、彼は、或る事を思って冷静になろうとし、た。事実、それは成功した。この寒いのに、入院している、自分の思っても見ないような重い病気に罹っている人々は、その心細さ、焦り、落胆、およそ自分の比では有るまい。
彼は、自然腕を組んで、背もたれにゆったりと背中を預け、目を閉じ、思った。
せめて自分に出来る事は、この風邪を、なるたけお医者さんの注意を守り、きちんと薬を呑んで、治す事なのだ。と。
彼の隣に座っている、恰幅の良い会社員が、名前を呼ばれ、雑誌を持って、立ち上がった。そのコートの会社員は自分より先に、長椅子に座っていたようだから、多分、自分ももう直ぐだろう。
彼は、そう思った。
「あたしね、空を飛んだのよ。」
今日は、寒空ながら、天気が良い。病室の一つ。個室が設けられた其処では、ベッドに、中学生にはなっているまい、少女が一人、横たわっていた。眩しい位に洗濯が行き届いた寝巻きを着込んで、天井を向いた白い顔が、今は、ほんのりと緋色が射している。
カーテンから、さんさんと陽が差し込み、見舞いに来ている方が、何やら、深呼吸をしたくなるような、午後。
少女は、見舞いの品と花束を持って遣って来た叔母さんに、目覚める前に見た、夢の話をしていた。
赤い、美味しそうなリンゴを剥きながら、叔母さんは、にこにこと少女の話を聞いている。しゃりしゃりと音を立て、気持ちよく、皮が剥かれて行く。その音をBGMにしながら、少女は話し続けた。
「夢の中で私は、鴉だったの。自分が鴉になったのを気付いた時、あたしがどうしたと思う?空を飛べたら、先ず、したかった事をしたわ。
病院の屋上から、街を見渡したの。広い、綺麗な街。沢山のおしゃれなビル。公園の池にね、沢山の水鳥が来ていたわ。
それから、病院の前に並木のポプラに降りて、向かい側の木に、飛び移ったの。
あたし、驚かせたのかしら?ポプラの下の茂みからね、可愛い猫、三毛猫が、飛び出して来たのよ。」
「あら、三毛猫?素敵ね。うーん。すると、このウサギさんは、鴉のお嬢様は、食べられないかな・・・?」
一つ、二つとお行儀良く並んだ、ウサギのリンゴを、少女は首を巡らして見て、目を輝かせた。
「要る、要る、大好き。・・・ねえ、あたしね。」
「なあに?」
叔母さんは、見舞い時間の残りが少ないのを、残念に思いながら、返事をした。兄夫婦に、少女の様子を話すのを、夢の話を中心にしなければならないのだろうか。だが。この子が自分から話したがっているのだし。と思った。
「三毛猫と、眼が合ったのよ。」
くすくす笑う少女の柔らかい髪を、叔母さんの掌が、優しく撫でた。そして、叔母さんは言った。
「良い夢だったのね。また、夢の話を叔母さんに聞かせてね。」
肯きながら、話し疲れたのか、少女が窓の向こうへと眼を移した。窓の桟が、陽の光を撥ね帰すのが見える。青い空には、雲一つ無い。
「知っているだろう?限定販売の奴。」
見舞いの品が、プラモデルのカタログと言うのは、少し変わっていないだろうか?
お菓子は余り高価なのは買えないし、花束は、何を持って行けば解らないし、いや、それでも、買って持っては来たけれど。
クラスメートが、虫垂炎を患った。普段から元気一杯の奴だったけれど、ぎりぎりまで腹痛を我慢していたらしい。
腹膜炎を併発していたとかいないとか。
奴ならさも有りなんと、部活仲間の間でも、持ちきりだったのだ。
でも、何のかの言って、毎日誰か彼かは、見舞いに来ているらしい。
入院が長引くようなら、何人かで誘い合わせて来て見ようか。・・・大勢で押し掛けるのが、見舞い客の決まり事として、どうなのかは、<失念>した。・・・・どうだったっけ?
ベッドの上で少年は、見舞いの品の薄い小冊子を穴が開くほど見つめながら言った。
当たり前だ。最新ヴァージョンだ。大手有名が付く、各メーカーとも網羅してある。ファンなら、眼を輝かせて何ぼの代物である。
「ニコタの“ファルシオンσ”だろう?・・・もう、販売されているじゃん。」
持って来た方は、幾ら入院患者でも、いつもの悪友の前で、遠慮損尺する必要無し、と言わんばかりに、学生服姿で、パイプ椅子に逆に腰掛け、背もたれの上に、頬杖を付いていた。
「知っているよ。俺が入院した次の日が、販売当日だったって事。」
「お前、あと二三日、退院出来ないぞ、何たって、腹膜炎だからな。」
「解っているよ。」
苛々と、彼は返事をした。
それから、溜息一つ。天井を見上げる。
「どうした?」
会話が不意に途切れたのを、不審に思った学生服が聞いた。
「行きたかったんだよな。・・・だからかな。お前が来るちょっと前、うつらうつら寝ていたんだけどさ、短いけど夢を見たんだ。」
「夢?どんな夢?」
お菓子を摘み、二人分のお茶を用意しながら、見舞いに来た少年は聞いた。
「うん。駅前大通りのいつものショップまで行く夢。病院を出て。」
「へえ。凄いじゃん。執念じゃん。」
「いや、それがさ、面白いの。」
何を思い出したのか、少年はにやりと笑った。
「夢の中なんだけど、妙に論理的って言うのか、人間の身体は、今、ベッドの中だから、使えないって思って、俺さ、猫なんだぜ。」
「猫だあ?!」
二人の目線が、何故か合う。
「うん。猫。三毛の猫、かな?何故かそんな印象が有るんだ。猫になって、ああ、これで、お店まで見に行けるって思ってさ。」
「何か、変な所で、リアルな夢って言うか。・・・其処が夢なのかな。」
「うんうん。」
ずずっと。妙にじじむさく、少年は出されたお茶を啜った。
「リアルって言えば、鴉が飛んでいたなあ。頭の上をさ。ちょっと怖かったな。見つかったかもって、思ったし。」
怖かったと言う割には、この話をしたがっている様な印象を、ちょっと振り払うように、窓の外を見て、ベッドの上で、パジャマ姿で少年は、照れた様に、笑った。
201号室の腎臓透析の少女の問診表の回収の後は、202号室の虫垂炎の少年の様子を見がてら、熱を測らなくては行けない。
あら、逆かしら?
熱を測るのが主の目的で、様子を見て、早く眠るようにと声を掛けた方が良いのかな?男の子って妙に手が掛かる時が有るから。
看護婦は思った。看護婦になって8年、この総合病院に勤めてからなら、3年になる。
この病院は、各種保険は勿論、厚生施設も完備している。自宅からも近く、勤めやすい。
出来たら、これからもずっと。白衣の天使。そう呼ばれることは、嫌いじゃない。看護婦として当たり前の事をしているだけ。
彼女は背筋を伸ばして、202号室のドアをノックした。
「はい。」
帰って来た返事に、眼を丸くする。此処は個室の筈。・・・・別に少年の両親が贅沢指向だった訳では無く、空いていた部屋に入って貰っただけなのだが。
個室から、二人分の返事が返って来たのだ。
成る程、見舞い客か。彼女はくすりと笑って、直ぐ、笑いを噛み殺し、ノブを回してドアを潜った。
同じ頃、幾つかの病室を同時に見回らなければならない、内科の担当医が、201号室と202号室のカルテの上下を、また間違えて頭を抱えていた。
カルテの取り違いにでもなれば、社会的な大問題として発展しうるだろう。
こうなると、カルテの保存方法の問題である。
どっちを上にすれば良いのだろうか?
救急で遣って来た患者のカルテか、長期の定期的な治療を必要としている患者か。
勿論、患者は患者なのだが。
そして、こうも思った。
あの二人の少年少女、年の頃も同じ位、偶然ながら、は、隣室でありながら、今の所、お互いの存在を知った風も無い。
しかし、自分達の事が、こうして、些少ながらの問題になっているなんて、考えもしないだろう。
実に、何と言うか、人間とは、縁とは、不思議なものだ、と。
考える医師の窓ガラスを、やはり、木枯らしが、楽しげに、叩いていたのであった。
* The End *
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