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春は名のみの

 お祖父さんから受け継いだ庭は、思いの外、広かった。

 長いつるつるする廊下と、年に二回は畳職人が出入りする広い部屋が幾つか。

 庭に面した廊下からは、掃き出しのガラス窓を通して、冬は雪、春は花と季節毎の風情有る情景が楽しめる。

 昔は何処にでも有った、木造の日本家屋で。

 祖父が身罷ったのは、春まだき、寒い朝の出来事。

 同居していた家族全員に見送られての、布団の上での安らかな死出の旅路に出たのであった。


 「歳も歳だし。」


 慎也の父親は、何度か、そう繰り返した。そう言えば、実の父親を喪失した事への寂寥が、幾らかでも拭い去れる、とでも言うように。

 まるで、慎也に何らかの原因が有って、それを慎也は少しでも気遣う必要は無い、と教えてくれてでも言うが如くに。


 大きな不動産の幾つかを管理していた、老いて尚矍鑠としていた祖父が亡くなった事への、次の言って見れば“騒ぎ”は、この先、確かに遣って来るだろう未来への確かな予測情報でも有った。

 しかし。


 通夜の手配を終えた両親の元へと、午後遅くに、漸く、弔問客が、三々五々集まり始めた。

 とろとろとする昼寝を終えて、慎也は徹夜の後の短いまどろみから目を覚ましたのであった。



 まどろみの中で、彼は、夢を見ていた。

 夢の中で、白髪白髯の仙人の如き風体を湛えた祖父に肩車されて、慎也は彼も良く知る広い庭を歩いていたのであった。

 彼は、一人っ子でもあった。祖父は今は亡き祖母との間に、俗に言う『一姫二太郎』を儲け、長女は他家に嫁ぎ、今は、慎也の従姉妹が二人、海の近い都市に暮らしている。

 庭には沢山の花々が咲いていた。良い匂いのする蝋梅から始まって、水仙、木蓮、辛夷、連翹、まだまだ、一杯有る。

 どれも、祖父が人任せにせず、丹精をして来たものだ。

「祖父ちゃん。」

 夢の中の慎也は、もっと良く見ようと、身を乗り出した。刹那、祖父が言った。

 家族だけに見せる、あの優しい笑顔であった。

「全部、お前のものだぞ。」

 と。

 目が覚めての後、未だ庭に居るような気がして、少し慎也は、肩を震わせた。

 反射的に思ったのだ。こうすれば、今よりは若干は暖かいのではないか、と。

 布団を撥ね退けて、窓の外が明るいのを確かめる。少し風が有るのか、飛行機雲が消えかけていた。

 慎也は、突っ掛けを履いて、庭に降りて見た。

 寒い風が、彼の頬を覚まして、夢から引き摺り出してくれる様だった。

 誰に言われなくても、庭は今の季節から次の季節の準備にかかってくれている、慎也は思った。探して見れば、蕗の薹も芽を出している頃かも知れない。


 その時。彼は、見慣れぬものを見た。

 石塀の上に高く、電線が寒風にビュウと鳴っている。塀を挟んで電信柱と隣り合わせの銀杏の木。梢に、黒い三角形の、何かが、鳥の如くに止まっていたのだ。

「あのね。取ってくれる?」

 不意に裾が引っ張られた。吃驚して、見下ろすと、驚くほど色の濃い漆黒の大きな眼が、これは潤んで彼を見上げていた。

 見慣れぬ子だな。彼は思った。弔問客のどなたかの連れてこられた子だろうか。

 止せば良いのに、この狭くも無いが、だだっ広いとは言いかねる庭で、凧揚げをしたものらしい。彼は、言われるままに、凧糸の端を探しながら思った。

 くすくす笑いながら、あの、三角形の黒い凧には、自分も夢中になったものだと。

「はい。もう、こんな所で、凧揚げをするんじゃないよ。」

 とんだ木登りになったと独りごちながら、彼は、子供の玩具を、そっと進呈した。

「うん。ありがとう。」

 子供の嬉しそうだったこと。黒いビニール製の凧に頬ずりをしながら、その子は言ったのだった。「僕ね、うんと、此処の人に可愛がられたの。」

「へえ。僕の知らない時に、家に来ていたんだね、それじゃあ。」

 祖父母が自分の知らない子供の、鼻を拭いてあげたり、お菓子を出して上げたりする様を、慎也は思い浮かべた・・・・・悪い光景では無かった。

「だから、こんなに大きくなる事が出来たの。」

 直ぐ其処に居る筈の子供の声が、やけに遠くから聞こえるようだ、と、不思議に慎也は思った。

 気が付くと、庭には、慎也が独りきり居るだけだった。

 風がぴゅうぴゅうと鳴いている。けれど、暖かな日差しが、まるで、太陽の足元に、風がじゃれ付いているようにも思わせる、昼下がりの出来事であった。

 慎也は、溜息を付くと、お茶を慎也に出す為に、彼を探している声の方を振り向いて、そちらに足を踏み出したのであった。


                         ************


「こちらですよ、坊ちゃん。」

 庭師に案内されるままに、庭の片隅の、陽だまりの場所に屈み込む。

 彼の腰位の高さの小さな梅の木が、今、新しい朱鷺色の花を幾つか咲かせたばかりである。

「しだれ梅だそうで。大旦那様が、それこそ、割り箸位のを、挿し木して、此処までにしましたんです、はい。」

 慎也の鼻を、咲いたばかりの梅の香がくすぐった。

「うん。綺麗だね。」

「来年は、もっと、大きくなりますとも。」

 庭師は請合った。

「そうだね。」

 慎也は肯いた。小さすぎて、枝垂れるまでに行かないそれは、それでも、将来の樹姿を、その枝の張り出し方で、予想させなくも無かった。青空の下で咲くそれは、ゆっくりとでも良い、精一杯、大きくなりたい、とも、訴えているようにも思えたので。

「僕も、何か、手伝えることが有ったら、良いと思うよ。本当に。此の花は、とても綺麗だからね。」

 して見ると、彼にも、この大きな家と庭と、自分の家の地所を、祖父や父親から受け継ぐのは、決して悪い事では無いと、そう思えて来たのである。


 沢山の木々が林立するその中で、小さな枝垂れ梅は、元気に己の場所と持分を主張していたのであった。




                                   
* The End *

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