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教室の放課後


クリーニングから帰って来たばかりの制服は、花のような、良い匂いがした。
ナチュラルで、押し付けがましくない、とても良い香り。
鼻を寄せて嗅いで見ると、鼻の中まで綺麗になりそうな気がする香りだ。
こんなデオドラントなら、直ぐ、買いに走るのに、こういう時に限って、少しでも近い製品を思いつかない。
理緒は、それが癖の、眉根を寄せて考えると、少しの時間の後、首を振ってやめた。
今すぐ、必要と言うわけでは無い。

 

香りに付いて詮索するのは、これ以上はやめにして、手早く、セーラー服に袖を通した。
理緒の通っている高校は、驚く無かれ、二十年前の夏服を未だに現役で採用している。役員会の会場のセッティングの折、パイプ椅子を運んだ彼女に、二十年前の卒業生が、そう、請合ったのだ。
『あたしが卒業した時には、五十年前の伝統を頑なに守っていたのに、今や、七十年前だわ。』
ショート=カットにスポーティなスーツ姿の、小母さんと言うより、お姉さんと呼びたくなるその女性は、そう言うと、快活に笑った。
理緒は、自転車に飛び乗ると、一路、学校へと向かった。
片道、三十分。
初夏の空が、彼女の頭上に広がっている。ペダルをこいでいると、汗が出て来た。
二十年なんて、あっという間なのかも知れない。
ふと、何故だか、そんな考えが、頭を過ぎった。
夢中で過ごしていれば、楽しい時間は短い。一人で電車の中で過ぎて行く時間は、思いのほか長い。
だから、二十年なんて、あっという間なのだ。多分。
何も変わらない。ただ、あたしの胸が痛むだけ。
デジタル=ミュージック=プレイヤーの一つも持ってくるんだったと思った頃に、校門を潜った。
日曜日の学校は、それでも結構賑やかだ。
ある意味、当たり前だ。陸上部を始めとする運動部に、吹奏楽部に、応援団に、学校以外の何処で、部活をしろと言うのだろうか。
自転車置き場にマイチャリを置いて、そそくさといつもの道、教室への廊下を辿った。
雨が降っていたら、この道行きは、もっと、憂鬱なものになるかも知れない。
多分、何処の部活も、今日はうちの教室を使っていない、その筈だ。
それでも、高鳴るこの胸は、どうしたことなのだろう。
授業の無い日に、自分の教室を訪ねるだけなのに。

拍子抜けしたことに、入り口は、開いていた。

誰もいない教室。校庭から、開け放した窓を通して飛び込む、威勢の良い通る声が、妙に情景に似合ったBGMとなっている。
高校生の生活の匂いが、拭いようも無く、理緒の五感に飛び込んで来た。理緒の行動から、躊躇いが消えた。
慣れた動作で、椅子と机の間を縫い、自分の席に、ふわりと着席する。
綺麗に掃除された黒板が直ぐに目に入る。
「月曜日の一時間目は、日本史だっけか。」
何と言うことも無く、ひとり言ととも呼べぬ、言葉をひとりごちると、そのまま、斜め前の席に、視線を移した。
陽射しの中で、うっすらと浮かび上がる、透き通る、学生服の後姿。
何となく、項垂れているように見えるのは、彼女の思い過ごしなのだろうか。
「ごめんね。」
思ったより、あっさりと、理緒の口から言葉が滲み出た。
思ったより、ずっと、怖くなかった。
「先週の土砂降りの日、傘に入れて貰って、本当は、本当に、嬉しかったの。」
なかなか言えなかった言葉を、今、口に出してみるのは、果たして、自己満足のためだけなのだろうか。
理緒には解らなかった。
ただ、出来る事をするだけだ。
「ありがとう。」
ほどなく、嘆息し、立ち上がって、帰り支度をする彼女の、ポケットから携帯が鳴った。彼女の心臓が、大きく飛び跳ねた。
待ち受け画面が、仲の良い同級生からである事を告げている。
「もしもし。あ。ふーみん?!なーに?!」
[理緒ちゃん。あ、大林君ね、今、意識を回復したって?!]
「本当?!良かったあ。」
瞼が、いや、目尻が熱い。今更ながらに、初夏の陽光が、身体に沁みる。
昨夜、トラックに自転車ごと接触した高校生が、クラスメートで、自分も一再ならず言葉を交わした少年であることを知らされてから、初めての涙が、今、彼女の両目から、溢れ出ようとしていた。


 

* The End *

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