見えるだろうか?
あの姿が。
夕闇の中で、天使と悪魔が闘っている。
剣と鋒をかち合わせ、火花を散らして、しのぎを削りあっている。
悪魔の牙ががちがちとかみ合い、恐ろしげな音を立て、普段穏やかな天使の顔は、どんな大理石よりも、固く冷たい眼差しを目前の敵に対して注いでいる。
二人の姿は、地上の人間達からは見えない。
高みに有りながら、不可視の空間に存在する。
不可視の空間が熱く燃え、凍て付く闘気に、わななき続ける。
二人が顔を合わせたのは、昼前の時間。
剣を合わせる事になったのは、三時頃。
ただ一人の人間の魂の行く末を争っての事だった。
大学教授で、平和運動の旗印だった彼。
私生活は、慎ましく、どうしても、賑やかな場所より、一人離れた場所で、黙ってグラスを傾けるのを好んだ彼の死に瀕している枕元に、天使と悪魔は現れたのである。
寄越せ譲れどころの話では無く、いきなり始まった剣戟に、まるで空さえもが困惑を隠しきれぬように、赤く燃えていた。
長時間に渡る戦闘に、いくら、人間の常識を軽く越えた存在でも、疲労の色は隠しきれない。其処を突こうとするのだが、なかなか上手く行かない。
だが。
天を指す剣は、大地の護りを破る鋒に勝った。
白き雷と共に、どうと、不可視の大地に倒れ伏したのは、角と尻尾を持つ、悪魔の方であった。
ちょうどその時、人間の寿命も、時間が遣って来た。
天に在る大きな時計の音が鳴り響き、至高の存在の御許にいたらんと、魂は、ふわりと、より大きな世界へと旅立つのであった。
遺族の泣き声が、天使の合唱に和した。
「・・・・ゴンドラ?」
天使が振り向くと、悪魔が、珍しそうに、大空を見上げ、血まみれの顔の真ん中に位置する、炭火の如き瞳を瞠っているのだった。
「うむ。」
天使は肯いた。
「今しがた神に召されたばかりの、魂が乗っている。」
「さすが神様だ。・・・ふざけた物に乗せやがる。」
真っ黒な顔を更に歪めながら、悪魔はそう嘯いた。
だが、そこまでが体力の限界だったらしく、もう一度、大地に崩れ落ちて、身体を横にして呻いた。
漸くと言った感じで、天使の方に首を曲げ、言った。
「俺も、あれに乗るのか?」
「好きにすると良い。」
天使は言った。
「ゴンドラにするも、ジェット機にするも、要は天界へと至る為の、一つのステップに過ぎん。」
「へえ・・・。」
未だ皮肉な調子を捨て切れぬ悪魔であった。
「じゃあさ。」
「何だ?」
天使は悪魔の方へと向き直った。それに少し、意外そうな顔をしたかと思うと、悪魔は言った。
「風船でも良いのか?」
「風船?」
「風船に俺の魂だか、骸だかを乗せて、飛ばすことが出来るのか?お前達、神や天使と言うもの達は?」
風が、少しく二人の間を吹き過ぎ、トラノオの花の群れを揺らして行った。
沈黙の後、天使は悪魔の顔を見て、微笑んだ。
「勿論。」
「そうか。」
悪魔は言った。
ある夏になったばかりの、夕暮の出来事であった。
見えるだろうか?あの、空の高い所、薔薇色の雲の彼方を、小さな気球が、その小さな籠に、何か丸いものを、ちらちら光るそれを、乗客のように乗せて、ふわりふわりと、旅するのを。
のんびり、ゆっくり、飛んで行くのを。
天使の祈りと、神の願いを乗せた、黄昏色の気球が渡って行くのを。
* The End *
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