微かに漂う桜の香は、夜に入って、強まった様だ。
私は歩いている。宴会芸や一気飲みに、背を向けて。
遠ざかる、花見客の騒擾、耳障りな雑音(通常、カラオケとか呼ばれている)。
此れほど気分の良い事が、またと有ろうか。
気分が悪くなった彼女には気の毒だが、
もう少し此の侭、部長や小姑の如き同僚から離れていたかった。
小枝、砂利の類いを踏み踏み、私は傍らを振り返った。
「大丈夫ですか?」
私は声を掛ける。
華奢なハンカチーフで口元を押さえた彼女に。
私には気持ちの良い夜風なのだが、彼女にはきつかったかも知れない。
違う課に所属するOL。てきぱきとした取引先の案内と概略の説明には定評が有った。
その彼女が、か細い声で、ハイヒールの踵を折りそうにして歩きながら、
「大丈夫です…。」
白い項が三角に透けて見える。
今時の若い女性には珍しく、彼女はXtensionつまり茶髪とヘアピースで髪型を整えていなかった。
希少価値の有りかねない、黒髪ストレートのロングヘア。
・・・・いや、もしかしたら、ストレート・パーマかも知れないが。
いきなり、私には説明の付かない力が働いたような気がした。
何が私をそうさせたのか、私は上を向いた。
見事な真円に近い月が輝いている。耀うている。
私は口を開いた。
「子供の頃。」
え?と彼女は此方を向いた。どう思われようと構わなかった。気分が高揚していた。
「UFOを見たんです。」
パキリ。
音がした。ピンクのハイヒールの踵が。ぽっきり。折れていた。
驚いて、私は駆け寄ろうとした。被りを振って、彼女が私に支えられ、起き上がった。
……僅かな沈黙の後、彼女の声が言った。
「私もです。」
驚いて、そちらを見遣ると、彼女の頬に、桜灯りに映える、一粒の涙。
何も言えず立ち尽くしていた私達は、糸で引かれる様にして、二人同時に空を見上げる。
空が、泣いていた。
白く煌めく光芒を引く、真珠色の涙が、月面に一条の影を落として、
消えて行ったのだった。
もしかしたら。
そんな予感は在ったのだ。このような夜に、私と同じような仲間に出会えるかも知れない、と言うような。
爛漫と降り注ぐ、夜の桜の花弁を見上げながら、私は、いかに、自分自身が孤独であったのかを、知ったのだった。
* The End *
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