宴は、いまや正に、その壮麗にして豪奢な幕を閉じんとしていた。
贅を尽くした饗宴と言うより、これは、宮中で行われる、儀式の一環であった。それだけに、準備と進行には、気を遣う。
流石に、この日の為に、駆けずり回っていた、公達貴族や舎人にはほっとした気配が漂う。
天皇の前で、歌い、踊り、演奏すると言った大役を終えた、楽人や舞手達も同様である。
やれ物忌みの方違えの、暦のと予定進行表と首っ引きになっていた、天文、陰陽寮の居並ぶ博士達にも、安堵の気配が認められる。
宴と言っても、長い祭祀的な行事の締めくくりと言っても良い。俗に“五節会”と呼び習わされる元日、白馬(あおうま)、踏歌、端午、豊明の中でも、一年間の大きな節会の最後、四日間続く、新嘗祭の最後の日、辰の日に執り行われるそれは、“豊明節会(とよあかりのせちえ)”と呼ばれる。
邪気を祓い、怨霊を沈め、そこで働き、暮らす人々ともども、宮中を清めるための、それは、大変に重要な慣わしなのであった。
<彼>は、他の同世代の高家の若者達と共に、その時を、今や遅しと待ちかねている。
紫宸殿で賑々しく執り行われた、綺羅星の如き群臣を取り揃え、かつまた一段高い所に今上帝が臨席しての宴席である。当然、酒も料理も食器に至るまで、吟味に吟味を重ねた、最上等の膳を取り揃えてある。
酒と言っても、この宴席に振舞われるのは、白酒(しろき)、黒酒(くろき)のお神酒である。
篳篥の音色、鼓の声、琴の絃は麗しく、琵琶や月琴は嫋々と。
鳴り止まぬとも思える管絃も、大歌所の別当によって歌われる、朗々と響き渡る大歌も、うら若き、それらにあわせて舞踊る、全国から集められた美少女たちの舞も、決して退屈なものではない。
しかしだ。
(何せ、肩が凝るのだ。)
杯の位置一つ、魚の焼き方一つ、勿論、誰が何処に座り、何色の服を着た女官が何処の家の若者に酒を柄杓から注ぐかまで全てが決まりきった手順の元に、遂行される、言わば神饌の席である。
正直、食事を振舞われると言うよりは、仕事の延長に等しい。
<彼>は、先程より、橘の宰相に、注目していた。熱い視線を注いでいたと言っても良い。
いや、自分だけがそうしているのではない事は知っていた。だからと言って、その事実をもって、観察をやめる気にはなれなかった。
橘本家の後継者、正三位橘の宰相は、質素な色と柄の絹の束帯に指貫、同系色の烏帽子を身に付けた、日に焼けた肌を持つ、堂々たる体格の五十絡みの貴族である。橘家と言えば、大貴族であった。内裏との関係も深い。世代的には、<彼>や<彼>の友人達の父親に等しい。
その彼のいる所と言えば、上席も上席。帝のお隣である。白酒専用の杯を、捧げ持つようにして、たびたび口に中身を含みながら、帝や反対側に座る、<彼>の親類縁者の内でも長老格に位置する、大伯父と、白楽天がどうの、李白はこうのと、漢詩の話なぞを声低く交わしている。
「“仏は常にいませども、うつつならぬぞ、あはれなる・・・。”」
だれぞが、今様なぞを唸りはじめた。<彼>のいる所からは見えないが、列席している誰かには間違いない。酒が入った席なので、当然と言うべきなのだろうが。
「“人の音せぬ あかつきに、ほのかに夢に、みえたもう・・・。”」
(祝言かい。)
烏帽子も乱れなく、泰然と座って、静かに注がれた酒を飲む。そして、<彼>は、退屈していた。
(早く帰って呑み直したい。)
酒の強さには自信がある。同世代の誰にも負けぬと言う自負もある。ぶっちゃけ、大抵<彼>は、酒の席では、もっぱら、送られる側より、送る側に徹していた。
退屈の余り、心の中で、言って見る。
(橘の宰相。大伯父上なんか、どうでも良いから。そんなもん、打っちゃっといて下さいよ。)
そうも行かぬと思っているのか、先程から妙に、やんごとなき筋の周りだけが賑やかである。議論は沸騰しているものらしい。
(詩経が、どうしたのですって?)
だが。
唐突に、それは起こった。すい、と、音もさせずに、漆塗りの杯を、橘の宰相が膳に置いたのである。
<彼>には、その時、橘の宰相の周りだけが、輝いて見えた。
「やた。終わりだ。」
誰かが、多分従兄弟辺りだろうが、ごく小さく叫んだ。
”豊明の節会”も、“五節の舞”も、これでは、立場をなくすと言うものだが、いつの頃からか、橘の宰相が、杯を置けば、それは宴も、押し詰まって、参議の誰かが臨席の礼を言うと共に、帝、女御の退場。次に位の高い者から、順々にその場を退くと言う、一種の慣習が出来上がってしまっていたのであった。
潮が引くように、大広間から次々に消えて行く人々の背中を目で追いながら、今回も、例外では無かったことを知って、<彼>は心からほっとした。
(慣習、万歳だ。)
「ああ、終わった。」
思わず、自分の腰の辺りを叩いて見る。そんな<彼>の姿を見て、若いくせに、と言う人間はいなかったのであった。言いそうな人間は、とうに退出している。
暦も霜月(陰暦十一月)。主に帝御臨席用の大広間の扉を開ければ、戸外の空気の寒さが推し測れる程度には、寒く感じられる。一瞬、身が竦んだ程だ。
知った顔を、辺りから、更に探し出して見る。あわよくば、二次会に誘って見る積りだったのだ。開催場所は、その代わりと言っては何だが、出席者の自宅と言う事になる。
「おお、寒い。雪が降るのではないか。」
「うちの雑色は、平助は、何処にいるのだ。」
「皆さん、順番に。」
「灯りを持って来てくれ。見てくれ、外を、星が出ているではないか。」
周りで取り交わされる、宴がはねた後の、解放感。義務を果たし終えた後の、清涼感、それらが入り混じった混雑した会話が、一時的に、<彼>には気にならなくなっていた。
見間違いではないかとまで、案じたのだが、とりあえず、声を掛けてみる。友人に何かあったのかと心配しての行動である。あくまでも。彼には他意は無いのだ。
「あの、晴明・・・・?」
「何だ。」
じろり、とねめつけるようにして、こちらを見ながら、素早く(いっそ素早すぎたほどの)応(いら)えが還って来る。だが、その、最早見慣れた切れ長の印象深い瞳は今は、
(嘘ぉ)
赤く、濡れて光っていた。
「誰かに何か、言われたのか?」
「・・・例えば?」
「『似非陰陽師』とか、何とか。。。?」
一部始終を見ていた人間達の内、ごく近くにいた二人と同世代の公達はかく語る。
皆がみな、帰り支度に急いでいるその中で、下らん冗談を言えるのが凄いのか、とりあえず、周りの人間に迷惑をかけないように、その相手を殴れるのが凄いのか、判断に迷う所だ、と。
次の日は、朝から小雪がちらついていた。年末の物忌みの予定を周囲に伝えると、最早<彼>にはやる事が無くなっていた。
そこで、出かける事にした。
「旦那様。牛車のご用意が出来ました。」
掌の上で戯れに受け止めて見る、白く冷たい、<彼>の家の上に垂れ込める雲が切れて落ちて来たかと思わせるような物を眺めながら。
「良し。向かうは、安倍晴明の家じゃ。そちらへ向かえ。」
彼は言って、元気良く牛車に乗り組むのであった。
「晴明様は、陰陽寮なのでは。。。?」
御者席に乗った、いつも<彼>の牛車の御者を務める雑色、名を“六丸”と言う、が、振り向きざまに不思議そうに言うのへ、
「いや、陰陽寮も、幾ら何でも昨日の今日で、早々は仕事になるまい。」
昨日の酒がまだ体に残っているような、息をつきつき、<彼>は言うのだった。
「確かに。そうで御座いましょうな。ご主人様。酔い覚ましの呪文と言うのは、無いので御座いましょうか?晴明様に聞いてみては。」
「上手い事を言うな、六丸。俺の知る限りでは、聞いた憶えも無いがしかし、試みに聞いてみるのも、無駄では無いだろう。・・・それに。」
「それに?」
「今日辺りは家にいるだろうさ。」
安倍晴明と雖もな、最後は小声で小さく呟いた後、腕を組んで、彼は押し黙った。屋根の陰になってよく見えないが、どうも、固く目を閉じている姿勢が見えるのだ。
これ以上の質問を拒否する姿である、と、六丸は知っていた。そこで、仕事に戻る事にした。
ぴしり、と、六丸の振るう鞭の音がした後、ゆるゆると、白い牛に引かせた牛車は動き出したのであった。はらはらと、小雪が、舞う、京の都の大路の上を。
「で?」
熱い甘酒が、五臓六腑に染み渡る。六丸が、懸命に火鉢の中を掻き回しているのが、皮膚にも肺にも心地良かった。
「一体、何時間、主の留守中に私の家で、私を待つ積りだったのだと?」
安倍晴明が言った。手ずから、甘酒の柄杓を持って、<彼>に給仕してくれている。
「出かけているとは思わなかったのだったら。」
ぶつぶつと、<彼>は言った。
「悪かったな。調べ物をしていたのだ。これでも。」
顔をしかめて、晴明が言う。尖った声であった。喧嘩腰で何か言われる事に慣れっこになっていた筈の<彼>も、思わず、亀の子のように、首を引っ込めずにはいられないほどに、冷徹な、固い声音であった。
だが、冷徹のどうのと、この寒いのにと思うまでもなく、直ぐにその舌鋒は火を噴いた。
「全く、留守居を置いて行かなかったら、六丸などは、死ぬ所だったのだぞ。」
「留守居って。。。ああ、これか。」
これ、と、指した相手を、改めて見やる。
見た目は丸っきりの、立烏帽子に狩衣の神官、袖からは、畳んだ桧扇が見える。しかし、性別は女性である。長い髪をゆるく腰まで垂らしている姿が、神職らしいと言えば言える。すると、巫女なのか。にこにこと、優しく笑って、<彼>に肯き返した。
「これって、式神なのだよな。」
うろ覚えの知識で言えば、
「まあ、そうでも在り、そうでもなし、だ。とにかく、留守居だ。役には立つ。帰って見れば、こは如何に、二人の凍死体に出会う所であったのだぞ。」
まだ、怒っている。
「聞いて居るのか?何で、この私が、お主の死体の第一発見者にならなければならん?」
「晴明。そうならなかったろう・・・?」
いくら<彼>でも、これ以上は小声になれない、と言う所まで小さな声で言ったのを、当代随一の陰陽師はどう見たのか、くるりと、外に面する障子を振り向いて言った。
「雪が、積もって来たか。」
そして、溜息を付いた。雪にも負けぬ、白い吐息であった。
<彼>も、溜息を付いた。こちらは安堵の溜息であった。
朝も早くから単身、内裏の中の記録を保管する文書書庫に出かけ、夕方近くなって家路に付き、帰り着けば、自分の家の客間で、ぶるぶる震えながら、火鉢を囲んでいる、二人を見つけた、友人の説教は終わったのである。安倍晴明の。
「全く、この雪でなければ、追い出す所だ。」
口調が穏やかになって来た。あくまで、最前と比較してだが。と、見て、
「待て待て。土産は持って来たのだ。」
六丸が携えて持ってきた、包みを二つほど、持って示す。
「それは昨日の。。。」
「おお、昨日の“豊明の節会”の引き出物だ。酒と、食い物と。」
にっこりと、笑ってみせる。得意の笑顔だ。人によっては、およそ邪気の無い笑顔と言う人もいるかも知れない。
「飲もうぜ。」
「・・・解った。」
呆れ顔で、安倍晴明は、呟いた。
「結局、我が家に飲みに来るのだな。」
「自腹だろう。って言うか、お前は貰わなかったのか。引き出物。」
「昨日、見なかったか?」
「俺は、引き出物目当てに、宴席に来る訳ではない。」
他人の引き出物など、興味はないと言わんばかりである。
「確かに、飲み食いする為に、宴席に来る人間も、そうは居らんかも知らんな。」
「はあ?!。。。じゃあ、何をしにくるのだ、お前は?」
「俺か。俺は飲み食いする為さ。」
言った後、くるりと背を向ける。何をしたのか、隣の間との境になっている襖がするすると開いて、小皿や小鉢の載った漆塗りの膳が運ばれて来た。運んで来たのは、禰宜や神官の服装をした、二三人の人間達である。
全員が色白で面長の整った顔をして、整然と動く。あえて言えば、彼等の顔立ちや立ち居振る舞いは、晴明に似ている。彼等は、<彼>の引き出物を、恭しい態度で、主人から受け取り、また、厨房の方に消えて行くのであった。
一人ひとりが、まるで、口も利かぬ。だが、冷たい感じはしないのであった。例えば、歓迎されていないと言う様な。
滑るような足取りで、傍らを通り過ぎる時に、梅の花のような匂いを、<彼>は一人から嗅いだ。六丸はと言うと、ぽかんとそれをただ見ているのであった。
小鉢の中には、山菜の和え物などが、形良く品良く盛り付けられていた。
晴明は、やれ、一日の疲れと言わんばかりに、さっさと、敷物の上に腰を下ろして、汁物の中身を確認したりしている。
「あさりか、しじみかな?!」
「飯が先か。」
子供のようだと、晴明の仕草を見ながら、<彼>は、この光景は、何処かで見たことがある、と、思った。
この家では、一言、これが欲しいと言えば、炊き立ての白米の匂いさえ、何処からか、漂って来るようだ。
いつぞやは、女官たちの一人を、<彼>の家まで土産代わりに持ち帰るかと、もちかけられた事さえある。多分、晴明としては、冗談の積りだったのだろうが、しかし、結婚前の若い男性に、余りそういう冗談は言って欲しくないものだ。
時々、<彼>は思う。安倍晴明の宅で食事したと思っているのは、安倍晴明の家で食事したと、ただ、思っているだけではないのか、と。この屋敷の主人のように、時折、何もかもが現実感を失うように思えるのだ。
が。彼の健康な五体は、明らかに、そのような思い込みを、根底から否定しにかかっていた。
腹が明らかに空腹を訴えて鳴いたその物音を、聞かれた所で、気にする間柄でもなかったが。少なくとも、<彼>は気にならなかった。
「そう言えば、腹も空いたな。」
「おお、さすが、丈夫な奴だ。さ、喰おう。飲もう。」
「おお。」
楽しげに語り合う二人の傍らで、ようやっと、主人達の喧嘩が止んだと思った六丸が、これまた、にこにこと嬉しげに微笑んでいた。
待ち構えたように、先程の男女たちが、襖の向こうから現れ、今度は、上手そうなご馳走を沢山載せた皿を、盆に載せて運んで来た。山海の珍味である。
また、馳走する、と言う言葉は、駆けずり回って、支度をする、と言う字面を持っている。“豊明の節会”の為に使った労力、例えば、博士たちの送り迎えとか、鳴弦する為の、宿直(とのい)、衛士の人数確保、彼等の食事や、訓練場所の手配、を考えれば、これは、当然の報酬と言っても良いのでは有るまいか。立っている者は親でも使えと言う。当然、<彼>やその朋輩達のような若者達は、フル稼働させられたものだった。
飲みなおしたい、とは、思っていたのだ。若干の遅れは有ったが、それは、叶えられた感は有る。<彼>に異存は無かった。
「昨日は、何が有ったのだ?晴明?」
杯の端を舐めながら、<彼>は、聞いた。
ようやっと、切り出せた感は有る。しかし、後悔は無かった。
「うん。」
晴明は、梅の実の塩漬けを突いている。返事をしようかどうしようかと考えている体だ。それと見て、
「いや、言いたくないのなら。」
「いいや、言いたいよ。俺は。」
晴明の横顔は笑っていた。くっきりと、唇の両端を上げて微笑む、道化じみた笑いだ。<彼>の知り合いの内でも、晴明にしか出来ない笑いである。
「その事で、今日は朝から、書物やかび臭い文献の海を、ぱちゃぱちゃ、泳ぎ回っていたのだからなあ。」
「へえ。」
ぐい、と、晴明は、杯の中身を飲み干した。中身は宴席よりの賜り物、黒酒である。黒酒も白酒も、“き”は、“貴”に通じると言う。要はお神酒なのだ。
「全く、宮中の歴史など、改めて勉強し直す羽目に陥るとは、思わなんだ。」
「はあ!?何で、そんな事をしたんだ、一体?!」
「事実関係を確かめたくてな。」
杯から離した顔が、真剣身を帯びているので、<彼>は却ってほっとした。話してくれる気が有るらしい。上手く名人上手に軽くいなされるのではないかと、内心怯えていたのだ、さっきまでは。
「事実関係。で、何か解ったのか?」
「おお、解ったとも。例えば。」
いつ注がれたものか、また、ぐいと一口。
「例えば?」
「俺の、知らない、俺の親戚が、昨日いたか、とかな。宴の席にさ。」
頭の上に、いきなり、流星が降って来たとしたら、その人間の心理状態は、今の<彼>のそれに匹敵するだろう。つまり、ぐわーーーーーんんんん、と言う訳だ。
真面目に表現すれば、これを、『寝耳に水』と言う。
気を取り直して、友に向き直り、体ごと、詰め寄った。
「ど、ど、ど、ど、・ん、な・・・・。」
顔を、と言おうとしたところで、持っていた白木の扇で頭を叩かれた。それも、したたか。
「まあ、落ち着け。」
「落ち着けって。お前。そんな事は、俺には一言も。」
「だから、『俺の知らない』と言ったんだ。」
「有り得ないだろう?」
「そりゃ、お前ならな。」
「ぐっ。」
扇の陰から意味有りげにのぞいた視線に、流石に言葉を詰まらせる。
「そりゃ、まあ、な。」
敷物の上に、もぞもぞと、腰を落ち着かせる。鯛の焼き物に、少し箸を付けただけであったのを思い出す。六丸はと言えば、全身を耳にした如く、一言も聞き逃すまい、と言った風である。
「って、お前の家だって、野獣みたいに、ぼろぼろと増えて来たわけでは有るまいが。晴明。正式な家系図も無いと言う訳では有るまいに。」
何となく、情けない思いに駆られながら、<彼>は言った。獣扱いされているのかも知れないと言うのに、晴明は平気な顔で、
「安倍家か。天智天皇時代から既に、宮中で卜辞や天文、暦の作成、つまり、甲骨占いや星占い、宮中の行事における、吉日を選び出すなどの仕事でもって、仕えていたものよ。我がご先祖は。」
「うん。そうも、聞いている。」
その顔が、誇らしげに見えるのが好きだ、と、<彼>は思った。友が、このような顔で、仕事に励んでいるのならば、また、それが、多くの人々に喜ばれる仕事ならば、
(退屈な、宮中行事にも、少しは身を入れられる、と言うものだ。)
そう、彼は思う。何のかんの言って、この若き公達、実は将来性豊か、と、周りの大人達からは非常に楽しみにされていると、今は知らぬ、<彼>も少しばかり、変わった人間だと言えば言えるのかも知れない。
「で、何処にいたんだ。」
胸を撫でさすって隠忍自重の面持ちで、慎重に質問すれば、
「二杯目の白酒を、ちょうど、注いで貰った目の前に。今のように。」
と、答えた。ぎょっとして、
「女官か?!」
「違う。」
安倍晴明は、ぐい、と、杯の中身を飲み干した。一口である。そして、話し出す。その目が、何かを見据えるように、或いは記憶を手繰りだすようにして、前方を見ているのを、これまた、既視感を憶えながら、<彼>は話の内容に耳を傾けた。
「“豊明の節会”のみならず、節会には、“五節の舞”が必須、肝要だ。この“五節の舞”と言う奴だが。」
言葉を切って、じろり、と、<彼>を、見遣る。若いながら、この道の博士の持つ威厳が、その視線には宿っている。
「どういうものか、知っているな?!」
「邪気祓いの舞だとは。い、いや、待て。少なくとも四人から五人で舞うもので、人数構成は、公卿の家から二人、受領(≒国司。荘園などの持ち主が多い。)から、一人。殿上人から一人。えー、女御(天皇の奥方と思って置けば良い。複数形。)から選ばれる場合がありますよ、と。」
「ふん。それから?」
「選ばれた家は、大変に名誉であり、練習は大変。本番(節会)前日には、なな何と、帝ご本人の目の前で、練習の総仕上げを舞わなければならず(御前試)、しかも、その場にいられる人間は、ごくごく、限られた人数、だとしか。」
「来歴は?」
「ええい。良いか?そのかみ、天武天皇が、吉野離宮において、琴を弾じていると、ふいに現れた天女が舞踊ったと言う。その故事に因んで、節会によって、踊られるようになった。これで良いか?」
「ま、良いだろう。」
晴明が、ふい、と、畳まれた扇の先を、畳に付いているのを見て、<彼>は、胸を撫で下ろした。
「昨日は、何人だった?」
いきなり、意外なことを言い出すので、お神酒で舌を湿すのも早々に、
「五人だろう?見れば解る。」
「ほうほう。」
ばん。音を立てて、扇が拡がる。その意匠が好きなのか、今日も梅だった。
「間違い。実は、四人だった。」
「・・・・嘘だろう・・・・?」
「本当だ。昨日の今日だぞ。確かめて来た。良いか?」
右手の掌を、<彼>の前に差し出し、
「まず、播磨の国司の娘。」
親指から一本ずつ、上品な仕草で折り始めた。
「多治比家の姫君。これはお前も知っている、惟兼の妹君でもあられる。」
「うん。」
幼馴染の陽気な笑顔を思いやって、より一層真剣身を、<彼>の表情は帯びて来た。
「公卿の二人目は、北畠家の姫君。えっと、こちらが、確か最年少ではなかったかな?」
形良く伸びた、薬指にそれとなく、注目する。気のせいか、震えを帯びている。確認しようとした途端、
「殿上人からは、若草の間の内侍。これで、四人目。以上。」
ぱたん、と折られるのであった。
「以上って。。。。?」
「だから、これで、全部だ。昨日、我々の前で踊ったのは。この四人の女人で全員と、そう言った。」
「その通りです。旦那様。」
六丸が、口を挟んだ。
「六丸。お前。」
宴の間にいたっけ?と、言う前に、
「都大路で評判になっておりましたから、私も存じ上げております。ですが、この御四方、上臈様方以外の名前は、私も、存じません。」
「成る程。」
晴明が肯いた。
「選ばれた家は、大変な名誉、か。」
<彼>は呟いた。どしり、と、敷物の上に、腰を落とす。
「じゃ、あの、五人目は?」
「それよ。実はな。」
「うん。」
「俺も初めは、祓おうと思ったのさ。」
「もう、驚かん。」
「生者に混じって踊っているだけで、悪いものではない、とも、思ったからな。」
「何か、お前らしいな。」
皮肉に聞こえないように気を遣いながら、<彼>は言った。それには構わず。
「他の四人に囲まれた、中心部で踊っているのを、見たな?」
「うん。」
<彼>の目に、ありありと、昨日の綺羅綺羅しい衣装と冠をつけて踊った少女たちの姿が映った。
「その顔を見ている内に、はっと、思い当たった。」
「何と?」
「何処かで見たことがある、あの、つまり、何だ、霊気を、自分は何処かで確かに見た、と。」
静まり返った室内で、六丸の咳払いが響いた。
「おっと。六丸。」
我に返った晴明が命じた。
「もう、夜に近いではないか。灯りを点けてくれるか。一つで良い。他は要らない。助かる。有難う。」
六丸は、<彼>の家の雑色なのだが、晴明に対しても、並々ならぬ尊敬の念を抱いているのが解る。<彼>にとっては、気の置けない相手であった。
灯りが一つ点いただけで、家全体が明るくなったように、<彼>には思えた。
「ひょっとして、雪が止んだのか?この明るさは、雪明りか?おお、すまん、この晴明にしても気になる事は沢山有ってな。」
「解った。解った。晴明。・・・何だ?」
立烏帽子の女官が、<彼>の目の前に、物問いた気に佇んでいるのを見て、<彼>は問いかける。先程と逆である。
「客が来た、と、今、聞こえたが?」
「じゃ、そうだろう。」
心なしか、いや、酒の邪魔をされたと思ったか、ぶすり、と、晴明は応じた。
「真霧。」
杯を、部屋の隅に投げつける様にした後、安倍晴明は立ち上がった。その動作には、深酒の名残も無い。
「真霧とは?」
「お前が我が家の式神と呼んだ、あれだ。」
気が付くと、立烏帽子の姿が、消えている。
「へえ。真霧と言うのか。」
「うん。行く。」
「あ。俺も行く。お前の家に、今頃、客かよ。」
前を行く陰陽師の背中が、やはり、不機嫌だった。
玄関まで行って、驚いた。いや、客が本当にいたので驚いたのでは無く、
「ろ、六丸が、二人?」
玄関先に立っている六丸と、今の今まで自分達と一緒に膳を囲んでいた六丸を見比べる。
その、最前からいた六丸の方は、必死で頭をともすれば混乱しそうになるのを働かせ、自分に、良く似た年恰好の従兄弟兄弟はいたかと、考えている様子に他ならない。
二人は衣装装束から髪型から、首筋の小さな黒子の位置まで瓜二つであった。
違いと言えば、玄関先に立っている方は、にこやかに笑って、其処には此処まで単身遣って来た疲れの影さえ無い。
玄関先の六丸が、口を開いて、今にも『旦那様』と言おうとするのへ、
「急急如律令。」
容赦の無い、晴明の声がりん、と響いた。
ぎゃわん、と、しか形容の仕様の無い音、或いは声、が、辺りに響き渡り、六丸の姿をしていたものは、初め、黒い水のように、次に、灰色の煙のように、最後に、白を帯びた湯気となって、消えた。
「うんうん。」
思わず、肯いて、何かを確かに得た思いのする、<彼>であった。
「あ、おい、晴明。」
「飲み直すぞ。」
くるり、と踵を返す、晴明の後姿からは、特に特別な事をした、と言う感慨も感じられぬ。それでも、大変だったな、とか何とか、労いの声を掛けようとした所へ、意外や、六丸が追いついたのであった。
「も、申し訳がありませぬ。晴明様。」
「何だ、六丸。何を謝っている。・・・まさか、自分の責任だと思っているのか?」
「違うんだろう?晴明?」
眼を丸くしている友に、<彼>は尋ねて聞いて見た。晴明は再び歩き出しながら、
「当たり前だろう。」
何を言っているんだ、と、晴明が小声で呟いたのが、<彼>は聞こえた気がした。珍しく、それが何故なのか、<彼>には解る気がするのであった。
「先刻の話なのだがな。」
客間に全員が落ち着いた後に、晴明の方から、話の続きを切り出した。何処で温めているのか、料理は、温かい物が、膳の上でいい匂いを届けている。
「何処で、五番目の少女を見た覚えが有ったのだって?」
例え、本当に、神仙世界に所属する天女であっても、と、<彼>は胸の中で付け加えた。先程の『あれ』を見れば、それも、ごく普通に有りそうな事に思える。
「此処だった。」
ぱん、と、柔らかな音が、一回だけした。思わず、そちらを<彼>は見遣る。
「此処って・・・・お前の顔?!」
「うん。」
白い顔が、長く細い掌の指の五本ともに覆われていた。
「お前の顔。」
「そっくりだった。」
「さっきのあれとは?!」
六丸も、眼を丸くしている。
「全然、違う。」
「違うのか?!」
「解る。俺を誰だと思っている。」
晴明は、杯を飲み干した。
「そこで、調べた訳さ。」
話が漸く、今日の問題になって来たのに、<彼>は気付いた。
「そも、彼女は、何者かってな。」
「それで?!」
先を促しながら、半ば以上<彼>は、『五里霧中』と言う友の言葉を予期していた。だが。
「いた。」
「いた?!」
「居た。まあ、聞け。」
障子の向こうで一回だけ、鶫が鳴いた。雪は止んだな、と、<彼>は思った。
「昔々の出来事だ。からかっている訳ではないぞ。」
珍しく、客二人の顔色を伺いながら、晴明は切り出した。
「淡路の国司の娘が、“五節の舞”の舞い手に選ばれた。」
「うん。」
「はい。」
「おお、聞き手は素直だな。で。・・・・だ。」
勿論、周囲は大喜び。
当然、一番嬉しいのは当人に決まっている。衣装(この場合は、舞の装束ではなく、言う所の十二単さ)その他の支度を整えるやら、牛車を新しくするやら。いや、まずは、都に上らなくてはならないと言うので、伝手を辿って、情報を集めるやら、大騒ぎだ。
何処も同じだな、未だにどの家でもそうであろうよ。
淡路の国司の娘は、こう言っては何だが、当時の基準からしても、絵に描いた様な箱入り娘、つまりは、世間知らずでな。親は勿論、それが一番心配であった。
それと見かねた親族の一人が、幸い自分は、帝の傍近く仕えている安倍家の人間を知っている。彼に頼んで、協力を得よう、と、言い出したものだった。
安倍家は、周囲はどう考えていようと、卜辞、占いを良くし、宮中の行事を滞りなく進めるのが役目。
喜んで引き受けたとも、幸いに、当主の一人息子が、ちょうど、朴訥で無口ながら(占い師の癖にな)、役に立ちそうな、屈強の若者に育っている頃合いにも思えたし。何をって?何を引き受けたかだって?
京の都に上る淡路の姫様の、乗っておられる御輿やら牛車やらの周囲を、弓矢と剣で護りながら、送り届ける事。衛士の役目をさ。
偶然だが、安倍家の若者と、淡路の姫君は、年の頃も近く、さしもの朴念仁も、都に遥々近くなる頃には、淡路の姫君を歳の近い友人か、妹のように、思えていたものさ。
節会はどうなったって?いや、淡路の姫君は、見事に、大役を果たし終えた。滞りなく、な。
あんまり、嬉しかったので、安倍家の息子と、文を取り交わす約束さえ、整えた。姫君が淡路に帰っても、尚。
また、普通なら接点の無い、安倍家と淡路の国司の子供同士が親しく語り合っているのを見て、不思議に思った女房が居た。その方に宛てて、連名で事情を打ち明けた文も、残っている。
「で、それが。。。。」
<彼>は言った。いや、答えは解っていたのだが、言った。
「稀代の陰陽師、安倍晴明の両親の馴れ初め、と言う、一幕。信じろ、事実だ。」
言いながら、悪戯っぽく、晴明は笑った。
<彼>が答えようとした刹那、篳篥が鳴った。
瞬時に、晴明が動いた。外庭に面した障子を一気に開け放つ。
眩しい。<彼>らは全員、目を瞬いた。月明かりが、夜の雪が積もった庭に溢れている。
「そうか。今宵は満月だ。」
月を見上げると、月影の中で、花の如き、影が、花が咲くように現れた。冷たい空気の中で、周囲に芳香が溢れる。
庭に対する位置としては、丁度、野茨の繁みの上で。
月明かりの中で、“五節の舞姫”が踊っていた。ただ、一人だけで。
吉野の伝説、
おとめごがおとめさびしも 唐玉緒(羽衣)たもとにまきて おとめさびしも <大海人皇子>
の詩が伝えるように。月明かりに照らされた、天女が踊っていた。
金と唐紅の十二単。手には振鈴と袙扇、髪型はおすべらかし。回転し、逆回転し、両掌を振り上げ、蝶が舞い降りるように、また、下げる。うつむき、顔を上げ、横を向き、足を少しだけ上げ、下げる。
それこそ、羽衣と見紛う袖を、振る。一回、二回、三回、四回、五回。
伝説の通りに、或いは正しい振り付けの通りに。
楽しそうだ、と、<彼>は思った。
月明かりの中で、誰が歌うのか、大歌が聞こえていた。
細枝結ふ 葛城山に降る雪の 間なく 時なく 思ほゆるかな
歌に合わせて、“五節の舞姫”が踊っていた。安倍晴明に良く似た、”五節の舞姫”が。
その姿が消えても尚、少女の姿を、己は永遠に忘れるまい、<彼>は思った。安倍晴明の両親が、彼が烏帽子を頭に乗せる年齢になる前に、他界しているのを、勿論<彼>は忘れた事は無かった。
いつの間にだか、客間に居た全員が、客間に戻っていた。
「何で、現れたのかな?」
<彼>は呟いた。
「霜月は、万物の生気が弱まる、と、聞いた憶えは無いか?」
「ふん。それでか。」
<彼>はそう言って、にやりと、晴明を見遣った。珍しく、<彼>の勝利らしかった。晴明の頬が少しばかり、赤く染まっている。それでも悪びれずに、晴明が言った。
「気が付いていたのか。」
「昨日ぶたれた時に、な。熱っぽかったぞ。」
「ひょっとして、今日来たのは見舞いの積りか?お前、病人に飲ませるのか。」
「いや、何なら、自分で全部、飲もうかと。」
ひょこ、と音がして、また、梅の扇が、額の辺りを叩くのであった。誰有ろう、<彼>の。
「御母君は、心配なされた、と。」
こちらもいつの間にやら、真霧が現れ、水やら薬やらと、晴明の枕元に届けている。今日は泊まって行こうと心に決めながら、彼は最前から、気になっていたことを口にした。
「しかし、何も、戸外で踊られる事は有るまいに。」
「月光。月明かりが身体に良い、と、思っていたのかも知らぬ。」
ぼそ、と、額の布に手をあてながら、布団の中の、夜着にくるまった晴明が言う。
「はい?そんな、物忌み、有ったっけ?」
「物忌み。ある意味な。」
くすり、と、稀代の陰陽師が笑った。そう言えば、晴明の得意な楽器は篳篥であったと、<彼>は今更ながらに思い当たった。そのかみ、安倍家の若者も、或いは、篳篥を、小さな淡路から遣って来た、大役を負った少女の無聊を慰めんと、御前で吹いて見せたかも知れぬ。
「記紀においては、月の神は、当然、月読命だ。三貴子の一柱であり、天照大御神の弟、須佐之男命の兄とされる。」
「それは知っている。」
「で、此処で、我等の仏教のご入来だ。仏教の世界では全てが仏弟子。三貴子とても、例外では無い。月読命は、すると、月光菩薩と言う仏に、姿を変えるのさ。」
声も無く、聞き入っている彼らに、安倍晴明は言ったのであった。
「月光菩薩。当然、相方は日光菩薩。この二体の仏は、そう、我等が医薬と医者(時には安産祈願まで)に関する信仰の拠り所、“薬師如来”の、脇侍に当たるのさ。」
屋敷中が静まり返ったかのように思えた暫しの沈黙の後、この屋敷の主本人としては、その沈黙を苦にしていないと見えたがしかし、<彼>は口を開いた。
無限の労わりと親愛の情を込めて、言った。
「晴明。お前。・・・・長生きしろよ。」
「言うにや及ぶ。」
稀代の陰陽師は、僅かに唇を曲げて、そう、返事をしたのだった。
その、瞳は、見間違えようも無く、笑っていたのだが。
“天つ風 雲の通ひ路 吹き閉じよ
乙女の姿 しばし とどめむ”
僧正 遍照
* The End *
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