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夜半から降り始め、白い暗幕が垂れ込める如くに降り続き、あっと言う間に、否も応も無く粉雪は大地を覆うに至ったのです。見渡す限りの雪の原が、其処に広がっていました。吹き荒ぶ雪は、尚も絶え間無く降り続けます。降り頻るのです。或る時音も無く、また或る時は凩に乗って。
何時間も降る雪に、今や大雪原となった、標高の高い荒野の真ん中。ぽつんと置き忘れたかのような、小さな木造の小屋が一軒。雪降る時間に閉じ込められ、小屋の窓から漏れる灯火は、あかあかと、燃え盛るのです。暖色の極光を思わせて。
「お母さん。」
囲炉裏の傍で、小さな男の子が、呼び掛けました。心配そうに。真っ赤になった小さな手が桶の真水でタオルをぎゅっと絞り、何時も甘えて頬ずりをして来た、熱を帯びた顔を撫で擦ります。熱の為に中々寝付かれないで居る顔を。
飾り気の無い寝具に横たわっているのは、少年の未だ若い、母親なのでした。外は寒いと言うのに、額に汗を一杯浮かべて、懸命に薄れがちな意識の下から息子を見遣ります。
それに力を得て、少年は彼女に返事をして欲しくて、そっと呼び掛けるのでした。
「お母さん。」
「坊や。御免なさい。お母さんが熱を出してしまって。」
長い黒髪、白い面の其の女性は、憐れみを込めて、父親に良く似た息子を気遣う言葉を紅い唇から紡ぎ出すのでした。
「私さえ、こんな身体にならなければ、とうの昔に、先発した他の一族の皆様や、お父様と一緒にもなれたろうに。」
後の言葉は、苦しげな喘鳴に掻き消されました。
「僕のせいだよ。お母さんのせいじゃない。」
堪り兼ねて少年は叫びました。
其の目の前で。不思議な現象が巻き起こりました。いえ、恐ろしい出来事が。けれど、坊やは平然としています。
お母さんの美しい瞳がふと光ったかと思うと、坊やに差し伸べた手がぱたりと落ちました。同時に、美しい栗色のふさふさの柔毛が其処に生えて来ます。優しい顔が見る見る長くなって、耳が後退し尖り、忽ちの内に、威厳の在る牝狼の頭部が出来上がりました。いいえ。布団の中に居るのは、既に堂々とした、焦茶色の毛皮を持った森の精霊、狼です。月明かりにでは無く、囲炉裏の火と灯明かりに照らされたその姿は、狼そのものです。
しかし、それも束の間。四肢を突っ張る容にして立ち上がろうとした狼は、その場に力無く倒れ伏して仕舞いました。あっと言う間に、元のお母さんの姿に戻ります。顔は汗びっしょり。ぜいぜいと吐く息を必死で整えながら、息子に呼び掛けます。
「坊や。」
「僕が、人間の姿の儘で行こうって。・…狼になって旅をするのは、嫌だって言ったから。悪いんだ。狼の姿になって旅をすれば、こんな事、起こりっこ無かったのに。」
少年は俯きました。綺麗に揃えた二つの丸く小さな膝に、拳がそっと喰いこみます。その姿を、狼女であるお母さんは、やはり可哀相だと思うのでした。
彼等は、狼男(女)の親子でした。
丸っきりの完全な狼に変身出来る、狼男の一族。二人の間の一粒種である、夫婦どちらの特徴と能力をも受け継いだ少年。彼も極く幼い頃から、牙と爪と尻尾を持った狼に変身する能力が有りました。それは、この〈一族〉ならば、当たり前の事なのです。
旅の途中、何人もの少年と同じ年頃の子供達を見掛けました。言葉を交わしたりもしました。しかし、彼等は、所詮普通の人間であって、満月の夜に狼に変身したりなど、決してしません。自分達の狭量の責任で、友達の少ない大人になってしまうのでは無いかと、それが心配なのです。
お母さんは、囲炉裏からゆらゆら上る煙に煤けた天井を眺め、そっと息子に解らない容に、溜息を付きます。
彼女は知っていました。自分の息子が、両親を愛している事を。けれど、少年自身が、自分が狼男である事を嫌っている事実を。変身したがらないのも其の為であると、母親ならではの観察力と直感で、解ってしまっていたのです。
それは取りも直さず、自分自身を嫌う事であると、彼は、何時気が付くのでしょう?
降る雪は、何も云いません。
親子二人の窓を、真白な雪は、華奢な六枚の透明な花弁を広げて、徐々に覆って行くのでした。優しく。或いは決然と。
昔々。其れは何時の事か解りません。
何時の事か何処からか、南北に細長い此の島国に、普段は人間の姿をして暮らしていながら、満月の晩になると、正真正銘の狼の姿に変わる、或いは変身する一族、それとも集団が住まう様になったのです。何故かは誰も知りません。
狼は、また、〔大神〕とも読めます。彼等の大いなる神が決め給うた事柄なのかも知れません。
其の卓越した身体的特徴によって、彼等は季節が読めます。占いを良くし、古代の祭祀にも詳しく、一族が決めたリーダーには必ず従うとも云います。
昔は、人間とより良く共存していた一時期も有ったのかも知れません。世界中の様々な神話や民話に其れが見えます。晴れた昼間の水面に映った木漏れ日が、更に家の壁や天井に、動く影となって揺らめいています。ゆらゆらと。
例えば、キリスト教の四大守護聖人のシンボルの幾つかは、ライオンや鷲ですが、何故、動物でなければならなかったのでしょう?聖杯や十字架でも良さそうなものですが?
キリスト教初期、ライオンは敬愛というよりは、畏怖或いは恐怖すべき対象である筈でした。キリスト教信者は時の権力者、ヘブライの王達、時にはローマ皇帝といった、神の子イエス=キリストを毛嫌いする人々によって、苛烈なまでの迫害を蒙ったのです。彼等は奴隷の身分に落とされ、コロシアムに於いて、観客の見守る中、素手でライオンと闘わされました。多くの尊い血がコロシアムの大地の上に撒き散らされました。其の記憶、其の痛手も癒えぬ内に、彼等の旗印には、あかあかと鬣靡かせたライオンが燃え盛ったのです。殉教者の象徴?それとも。
或いは、茨の刺を身体から抜いて遣ったことを覚えていたライオンが、その相手だけは喰わなかった伝説に由来するものなのかも知れませんが。
エジプト神話には、そのものずばりの、犬の頭を持つアヌービスと言う名前の神が登場します。守護の神です。犬の頭には忠実と警戒と言う性格が象徴として表されています。主神たるオシリスとイシス夫妻に、良く協力する姿が神話には描かれています。
ギリシア神話には人間が動物に変身する類の神話が一つに纏められています。其の名も”メタモルフォーセス”つまり、『変身』。
知恵有る動物、又は、人間の様に話す野獣の神話や民話は世界中に、胎蔵界曼荼羅の仏の姿より多く散らばっています。其の動物は多くは不思議な法力を有しています。ローマ建国の英雄双子のロムルスとレムスは、牝狼に育てられました。
彼の有名なヨーロッパを震撼させたジンギスカン、鉄木真(テムジン)の元帝国。蒙古一族の祖先は、蒼き狼と生白き牝鹿です。
顧みすれば、我が日の本の神話には、此れと云って、狼男や獣人に関する記述は見当たりません。もし、狼男や獣人に関する記述に限定すれば、ですが。
酒呑童子退治で有名な坂田金時が、足柄山の金太郎と呼ばれた時代、動物達と話せた事は有名です。誰が最初に、幼児期にある金太郎坊やへ話し掛けたのでしょうか?悲劇の英雄源判官義経が牛若丸であった頃、彼に源家の大将として恥ずかしくない剣技や兵法を授けたのは、鴉天狗であるとされています。実際の彼等は深山に籠って修行していた修験者であるとするのが日本史の定説ですが、何故、彼等は殊更に正体を世間に曝してはいけなかったのでしょう?
又、聖者や僧都、仙人が幾多の動物や鳥、時には魚まで伴って姿を現すのは、物語の世界では最早常識です。全ての社や神域は“御使い”(猿や鹿、時には熊の場合も有ります)を眷族として使役していると言ってもおかしくありませんし、龍に変身した八郎潟の八郎、田沢湖の辰子の例を数え上げるまでも有りません(後に此の二人は婚姻したと伝説ではされています)。
真に以って瑞穂のみならず言霊集いて幸わう、八百万の神々しろしめす大八洲日出国日本は、神話の国ギリシアにも誇れる堂々とした独自の”メタモルフォーセス”を所有していると言っても過言では無いでしょう。
そう云えば、割合日本の神話とギリシアの神話は共通点が多いのです。
例えば、イザナギとイザナミ神話はオルフェウスとエウリディケの神話に酷似しています。どちらも、愛する女性を追って、冥府へと旅する道を選ぶのです。ペルセウスとアンドロメダの神話は丸っきりスサノオノミコトとクシナダ姫による、ヤマタノオロチ退治そのままです。両親によって、自分の娘が怪物への人身御供に上げられた処まで。また、ヤマトタケルことオウスノミコトの実在は神話でもありまた史実でもあるとされていますが、彼が父親である時の天皇から下された幾つかの難問奇問は、正に其の儘、ギリシアの大神ゼウスの妻ヘラに憎まれたヘラクレスの神話に見えるエピソードに、そっくりであると云えましょう。
ヤマトタケル。彼は死んだ後、白鳥になって飛び去った、とも云われています。
〈浅茅野原 腰なずむ 空は行かず 足よ行くな〉
晴れた大空を山向こうへ飛び翔けって行く、大きな白鳥を追い掛けて行った、生前彼の愛した姫君達が、走りながら、詠んだ歌であるとされています。…深い笹の原が、腰に纏わり付いて上手く追っては行けません。どうか貴方よ、空を行かないで下さい。行ってしまわないで下さい。私は足では行けません。…そう云う意味になるでしょうか。
ギリシア神話はシルク=ロードを伝わって日本に伝来したとも言われています。日本の神話伝説は起源発生からギリシア神話の影響を受けて来たのだそうです。だとすれば、日本人は其の歴史の始まりから正しくコスモポリタンであるとも云えるでしょう。
世界的に流布する狼男の伝説。其の肖像画は、或る時は鮮血に塗れ、また或る時は、満月の光に濡れ、めくるめく謎の紫色の絹布に包まれています。シルク=ロードを遥々越えて来たのは、果たして誰だったのでしょうか?
少年と御母さんが旅立ったのは、秋の深まる頃でした。永い時間馴染んだ山々の紅葉椛が、さらさらと別れを告げるかの如く、全山静かに彩る風景が、冷たい朝の空気と共に少年の敏感な鼻を一寸だけ湿らせたのを、今も覚えています。
沢山の沢山の小さな心の籠った手が振られています。黄色。赤。オレンジ。ピンク。ああ、落葉松の金色が風に舞い。ダケカンバの幹の白が目にも眩しい。さようなら。さようなら。またね。また会おうよね。何処に行っても、何処まで行っても、僕達私達、ずうっと、友達だよね。覚えているよね。覚えていようよね。
『うん。』
頷いて、彼等は旅立ったのでした。高い空を、切れ切れの雲の下で、風が口笛を切なそうに吹いているのです。
彼等”大神”一族にとっては、長い間のそれは念願でした。しかし、迷って来たのは事実です。子供達はおろか、一人前の大人にとっても頭の痛い問題でした。
狼男の故郷を訪ねる旅に出る事がそれです。日本の何処かの山岳部に、その〈里〉は存在する。それは確かでした。〈里〉には”本部“が在ります。
”本部“には、現在の少年が所属する一族が必要とするもの殆ど全てが在る、と彼等はそう確信していました。彼等の一族集団は、現時点で切実に情報を欲していました。何よりも、他の’支部‘の状況を知りたい。何処の家族も我々と同じ様な境遇なのだろうか?別の生き方、方向性が有り得るのでは無いのだろうか?我々は其れと知らずに、一族の誰かを不幸にしてしまっているのでは無いのだろうか?
子供達の未来。其の言葉を彼等は考えました。切実に考えました。彼等狼に変身出来る一族は野獣では無く人間です。人間は集団の中で暮らす社交的な生物です。人間は学校に行って、高い教育を受けなくては行けません。其の時に一般人とも交わって暮らさなくては行けないでしょう。其れを躊躇っては行けないのです。〈一匹狼〉だなんて冗談を言っている場合では有りません。或いは友人だって出来るかもしれません。
或る日。一族の誰かが大変な情報を持って、〈街〉から帰りました。一族が住み暮らす山が、レスキュー部隊の大々的な集合訓練地になると言うものです。一族は騒然としました。もし、満月の晩に訓練が有ったら。もし、山中で偶然一族の者と任務途中の隊員が出会ったら。こんな事は考えたくも有りませんが、子供達の一人が彼等訓練を積んだ一般人に捕えられたら。もし。
…彼等は、どうなるのか。其の時、我々はどうするのか。議論は百出し沸騰しましたが、結論ははっきりしていました。
何よりも現在の此国では〈ニホンオオカミ〉は、珍しい生物だ、どころの話では無く、疾うに絶滅した筈の動物である事実が在るのも、果てしなく想えた議論にけりを付けるのに役立ちました。つい最近、北海道で其の姿を見掛けたらしい、と言うだけで新聞に記事が載ったのは、記憶に新しい処です。
もとより、平和的な彼等は、一般人と争う事を肯じ得ません。
山を捨てる。否、捨てるとまでは行かなくても、暫く遠方地から様子を見ては。其の為にも一族挙って〈里〉に行かなくては。〈里〉に行って一族の安全を図らなくては。そう結論しても、一族全員の決が取れるまで、三日間掛かりました。
彼等は旅立つ事にしたのです。
其の日から。其の晩から。或る者は変身して、また或る者は人間の姿で、こっそり旅立ち始めました。一人で自分の影を道連れにして。二人、三人後も振り返らず。それとも、一家族が支え合って。連れ立って、手を繋いで。ピクニックにでも出掛ける様に歌いながら。無言で。遠足や修学旅行、または社員旅行に見せ掛けて引率の先生やガイドの後を付いて。新婚旅行を気取って。歯を食いしばって。櫛の歯が欠けて行く様に一族の者が、彼等の山から消えて行きます。彼等の村から消えて行きます。
先発の御父さん達に遅れる事一週間。坊やと御母さんも旅立ちました。たった二人で。
「お父さんにはね、大事な御用件が有るのよ。」
傍らで落ち葉を踏み拉いて歩く坊やに、お母さんは言うのでした。
「だから、坊やは、お母さんと二人だけでも平気よね。」
笑いながら言うお母さんを、本当に坊やは大好きなのでした。
初めての旅は、解らない事だらけでした。特に坊やにとっては、見るもの聞くもの全てが新鮮で珍しいのです。おかしな話ですが、生まれて初めて旅館に泊まって宿の温泉に、親子して入浴したのでした。何せ彼等が後にして来た村には、清らかな渓流沿いに露天風呂が有るので。ほっと優しい感触の白濁したお湯に浸かりながら、御母さんが煌めく様に歌った歌を、その後坊やは、折を見て思い出す事になるのです。
目立つのを恐れる旅でした。何もかもが輝いて見える旅でした。
そして、其れが起こったのです。
旅館の炬燵は、まるで我が家の容でした。ぬくぬくと暖かくて、しっとりと落ち着いて。中に両足を入れて座って蜜柑でも剥いていると、ずうっと、此の侭此処に居たくなります。ふと、窓ガラスに何かが当たった様な気がして、坊やが振り向いたのです。
暗くなりかけた空から、白い物が舞い落ちて来たのでした。何も書いていない、白紙の手紙の様な。だからこそ、何ものかを雄弁に物語る事を心得た何かが。
「雪。」
お母さんが呟きました。
「本当だ。雪だ。」
「初雪ね。」
窓際に坊やが直ぐ駆け寄って、両手と頬を押し当てました。冷たい。見上げれば、雪の進軍は、次々に落下傘を開いて地上に軟着陸して行きます。明日の朝、人々は、此地に冬将軍が遣って来た事を大本営の発表を待つまでも無く知らされる事でしょう。
「明日、此旅館を立ち去りましょうね。」
「うん。」
坊やは頷きました。お母さんの言葉に、それ以上何も云えずに。
其の晩。鉱泉に浸かった後のぽかぽかした身体で布団にくるまって、うとうとして居た時に、坊やは夢を見ました。とっても広い、知らない原っぱが出て来るのです。綺麗な花々が咲いている原っぱです。緑の草木がゆさゆさ揺れているのです。彼は知らない男の子と遊んでいるのです。坊やは彼の名前を知っているし、彼も坊やの事を良く知っているのでした。知らない遊びを沢山二人で一緒にして遊びました。二人ともとっても、足が速いのです。駆けっくらしても負けないのです。其の子は云うのです。
『兎の後を追い掛けて行っちゃ、駄目だよ。』
『どうして?』
彼は聞き返しました。
『兎は、何処に行ってしまうか、解らないからさ。』
『解った。』
彼は大きく頷きました。其の子は、知っていて知らない子は、安心して言うのでした。
『さあ。次の遊びをしよう。先刻は林檎と蜜柑の遊びだったから。今度は。』
『今度は?』
『図形を思い出す遊びだよ。さあ、月の図形は?』
彼が答えようとした時、何処か遠くで電話のベルが鳴りました。
其の音で彼は目を覚ましました。旅館の部屋に彼は横たわっているのです。階下で誰かが話しています。
『誰だろう?』
彼は思いました。
『こんな時間に。』
眠い目をこすりこすり、起き上がって見ると、お母さんが暗い中、目の前に難しい顔をして立ち、坊やの顔を見詰めていました。微かに光る目のお母さんは言うのでした。
『荷物を纏めなさい。』
坊やは跳ね起きました。
《何か》が来たのです。凍り付く様な夜の果てから、《何か》が。
『此処の人達に、迷惑は掛けられないわ。』
心臓が、一度思い切り跳躍し、其の後、何十回と無く慌しいステップを踏みました。坊やはその《何か》が‘何’であるかは知りません。でも、噂に聞いた事の有る《何か》は、恐ろしい存在(もの)です。捕まってはなりません。夜には閉じてしまう白粉花が夜の訪れからは逃れられないにしても、彼等親子は、狼女の母親と狼男の成人前の存在である少年は、それから逃げおおせなくてはならない、それ程に恐ろしい存在なのです。
お母さんの話だと、《何か》或いは《誰か》は、ほぼ彼等の居所を嗅ぎ当て此の旅館に向かっているらしい、との事です。
『長距離バスの発車時刻に今なら間に合うわ。』
てきぱきと用意を整えながら、お母さんが言いました。坊やは黙って庭先の沈丁花や八手を眺めました。親子でキャッチ=ボールをしたのは、つい昨日の事です。
寝ぼけ眼の帳場の人達に、何を言ったものか説明したものか解らないまま別れの挨拶を言って精算し、名残を惜しむ言葉も考え付かない程、此処の生活が気に入っていたのだと気が付いたのは、旅館を出た後でした。
空は晴れていました。いつ雪は止んだものか、透明な空気が、張り詰めている二人の心を、否応無しに凍て付かせます。丸く青い月が大空から見ているような気さえしました。こんな時に限って眠くなりそうです。うっすらと積った雪景色、月の光に照らし出された薄蒼白い、透明な水の如き雪を、今は不思議に思っている暇も無ければ、観賞している余裕すら有りません。
ばたばたとチケットを買って、(しかし御客様、長距離バスは普通予約を取るものなのですが、解りました、御急ぎの御様子ですし・・・)空いた席に二人は急ぎ足で乗り込みました。
内部はふわりと暖かくて、静かです。各座席をライトが照らし出しています。長距離バスは夜遅い発車なのです。二人が乗り込んだ時には、既に後部座席に居眠りして居る会社員まで居ました。
発車と同時に二人はほっと息を付きました。景色がぐんぐんと夜の中で変わって行きます。見ていて気持ちの良い程です。なめらかに車線変更するバスの中で、お母さんは坊やに『お腹空かない?寒くない?』と訊ねました。親子二人が身を寄せ合った旅が始まったのです。頼るものとて無い、旅が。
『高い御山を越えて行くのよ。坊や。』
チョコレートを坊やの為に荷物の中から出しながら、お母さんは言いました。また、こうも言いました。
『運転手さんに任せておけば、後は目的地まで直ぐよ。』
ああ。けれど何と言う事でしょう。何の気無しに外を見た坊やはぞっとしました。思わず鳥肌が立った程です。月が。中天高く上ったまあるい青い月が、バスの後を付いて来るのです。何処までも。板チョコレートを齧るのも忘れて、坊やは窓の外に見入りました。生物の様に。決して彼等親子から目を離さぬかの様に。月が付いて来るのです。
溜息を付いた坊やは、おかしな事に気が付きました。窓ガラスに人間の顔が映っているのです。それだけならおかしな事は何も有りません。でも、あの男の人は、あんな良い身なりをして、だらしなく一番後ろの席でふんぞり返るようにして、ぐっすり眠っていたのではなかったでしょうか?坊やとお母さんがバスに乗った時は?それなのに今、じっと坊やの背後から、坊やを見ているのです。二つの黒目がちの眼はぱっちりと確かに見開かれています。空いている座席は未だ確かに幾つかぱらぱらと見られるものの、いつ、彼は座席を前部方向へ移動して来たのでしょう?
何故、彼はあんなにも一生懸命になって、二人を交互に見遣っているのでしょうか?
思わず知らず、坊やは傍らのお母さんの腕をぎゅっと?んでいました。すると、其の手を押し戻すものが有ります。当然、この柔らかな感触はお母さんのものです。不意にすっくりとお母さんが立ち上がりました。坊やに此処に居る様に眼まぜをしてから、通路をゆっくりと前の方へと進んで行きます。運転席まで行くと其処で立ち止まり、何やら運転手さんに小声で話し掛けています。
バスの乗客の殆どは眠っています。彼等を起こさない様に声をひそめて二人は話をしています。程も無く、お母さんが戻って来ました。そして、坊やににっこりと微笑み掛けました。
間も無く、静まり返って寝息だけが響く長距離バスは、大きな長いトンネルに飲み込まれました。中はオレンジの光で満ちています。間も無く、
”皆様、本日は当東山バスを御利用下さいまして有難う御座いました。”
トンネルの中を走るバスの中で、鈴を振る様な美しい女声がアナウンスをしています。アナウンスは続けて、
”此バスは終点連歌倉迄参ります。次は、明畠・・・・。”
緊張しながら坊やが窓ガラスを見遣ると、あの会社員風の男はトンネルの中では逃げられぬと思ったか、再び転寝の様子です。憎たらしい様な落ち着き振りです。
此の会社員は、あの噂に聞く《何か》なのでしょうか?それとも、《何か》からお金を貰って頼まれただけなのでしょうか?二人を見張っていてくれ、と。想像の雨の雫は幾多にも波紋を広げて行きます。間も無く、バスがトンネルを抜けます。一気に視界が広くなりました。と、ゆっくりとバスのディーゼル=エンジンの回転音が下がって行くのが解りました。坊やは目をぱちくりさせました。思わず喉が鳴り、此音があの会社員に聞こえなかったかと、どきどきしたものです。何処やらの砂利や小石がごろごろするぽっかり開いた空地へとバスは入って行くようです。やがて、バスが停車しました。
低く囁き続けるエンジン音の中で、運転手がぼそりと呟いたのが聞こえました。
『はい、篠之芽駅に着きました。』
瞬間、流石と言うべきか牝狼だけの持つ素早さで、お母さんは坊やを重いとも感じぬ容子で抱え上げると、脱兎の勢いで入り口に向かい、ステップを駆け下りました。料金は乗った駅で精算してあります。冬山から吹き降ろす冷たい風が、二人の身体へうなりを上げて体当たりをするのでした。二人は身を竦め、襟元を掻き合わせました。其の背後でエンジン音が再び回転数を上げます。思わず坊やは振り返りました。
呆気に取られている坊やの目の前で、再びバスが重たそうに発進しました。あの会社員風の男を乗せたまま。さようならの言葉も、またどうぞの挨拶も無く。
『丁度良い。待合室に温かい飲み物が有るわ。』
両手を揉みながら、お母さんが言いました。
バスの中でアナウンスしたのはお母さんでした。明畠駅と言ったのは、篠之芽駅の次の駅です。子供相手の悪ふざけと見せ掛けて、トンネルの中で予め吹き込まれたテープの口真似をしたのは、追って来る相手が、此の辺りの地理に詳しいかどうか、試すためです。一か八かの賭けとも言えるかも知れませんが、どうにか時間差攻撃と言うよりか、時間差逃亡術とでも言うべき物は、タッチの差で成功した模様です。
熱い缶コーヒーを飲みながら、
『これからどうするの?』
木で出来た長いベンチの上で坊やはお母さんに聞きました。お母さんは黙ってコーヒーの湯気を吹きます。坊やにも解っていました。窓の外に聳え立つ鬱蒼と森林が生い茂る険しい山。長距離バスから降りなければ、難無く越えられた筈の山を、これから親子は徒歩で行かなければなりません。あの巨大な中身を伴った影を、これから越えて行かねばならないのです。完全にまいたとは思えません。じきに追って来るでしょう。…親子は何一つ悪いことをした訳では無いと言うのに。お母さんから先んじて立ち上がりました。坊やがそれに続きます。
山の上は吹雪いていました。一面の銀世界。
親子はしっかり身を寄せ合って歩いて行きます。お互いの体温が感じられる此の場所で二人は一緒でした。耳を聾する轟音の中、坊やはそれでも嬉しかったのです。いつもお母さんが居てくれる。振り返れば、すぐ其処に居てくれる。旅の最初からいつも傍に居ました。片時たりとも離れはしませんでした。でも、これから彼等はどうするのでしょう。頼る者は遥か彼方に居ます。此の世界には彼等二人だけ、二人だけしか居ないのでした。
ふと、厳しい風が沙汰やみになったような気がして、坊やが顔を上げました。視界の隅を、何かが動いています。最初、雪明りの地面の上を、鳥の羽毛か雪玉が風に吹き寄せられて転がって行くのかと思いました。ころころ、ふわふわと。
兎です。鴇色を中心に持つ長い耳とふかふかの毛皮は、どちらも透明感を持つ程の白い色です。ウレタンを詰めた縫いぐるみが命を得て、活発に動き回っている。そうすると、こんなにも可愛らしく見えるものでしょうか?小さな白い兎が雪に塗れながら駆けて行くのです。赤い目が雪の地面に仄温かに映ります。何処へ行くのでしょう?
坊やはお母さんの手を握りながら、じっと見ていました。あの軽い身体を抱き上げて見たならば、温かいかも知れないぞと思いました。ひょいっとこう…簡単そうです。もう少しで手が届きそうです。雪の上に点々と足跡が印されて行きます。少しずつ一寸ずつ雪を巻き上げて進んで行きます。其の姿が雪に紛れて見えなくなると思った時、彼はすいと、握っていた温かい懸命な手を、離してしまったのです。
離してしまったのです。決して離してはいけなかったのに。
坊やは兎を追い掛けました。吹雪の中で、何処からか射す淡い光線の方向に、兎も跳ねて飛んで行きます。何故か、寒くありませんでした。ほんの少しばかりでも。此の白い広野に、兎と自分だけが居るような、一人と一匹で、永遠に雪野を駆けて行くかのような、そんな幻想めいた想いが、また降る雪の一片一片となって、少年と兎の周囲に身体に纏わり続け、渦巻き続けるのです。どの位走ったでしょうか?
ぽっかりと。本当に突然。不意に少年の視界が開けて、背中を押された様に、彼は広い場所に居ました。風が随分と優しいのです。そよ風程度にしか吹いています。雪が自分の眼前を塞がない事実に、彼は気付きました。其処等に満ちる淡い熱の無い光に、自ずと押し上げられたのでしょうか。見上げる夜空の高い所に、雪が、うねりのたくりながら唐草模様を描いて吹雪いているのです。
白い指が、兎を拾い上げました。いとも軽々と逃げられもせずに引き寄せます。円やかな優しい胸に、抱き上げられた兎は、すっかり安らいで瞳を閉じます。耳がぴくぴくと蠢きながら彼女の方へと傾ぐのです。左右揃えて。
坊やの方は、眠るどころではありません。呆然と其処に佇む髪の長い女性を見詰めています。つと。朱の唇寛げて。彼女が微笑みました。ふらふらと其方へ坊やが進みます。彼女に一声、何かを話し掛け様とした時。二本の力強い腕が、彼の身体を鷲?みにして引き戻しました。彼はその腕の匂いと体温を、生まれた時から良く知っていました。
『坊や!』
お母さんは叫びました。子供の身体が石になったかの如く、固まった儘動きません。此処まで追い掛けて来たものの、彼女は途方に暮れて、身体は冷え切っていました。
『ああ、神様。坊や、怪我は無い?』
抱き締めて、頬ずりしようと、尚も何処かへか進もうとする息子の腕を引いた拍子に、彼女は息を呑みました。石像の様です。それでも負けずに一二歩進んだ拍子に、粉雪に足を取られ、雪の中へと倒れ伏して行くのでした。冷たい、冷たい雪が骨の中まで沁みて行く感覚に、彼女は一瞬、気が遠くなります。
それでも、子供の手は離さなかったのです。
坊やは、はっと身じろぎしました。赤インクを散らした水面に小石を投げ込んだが如くに、目の前がぱっと赤く染まります。その紅い血の色は、兎の瞳より赤かったのです。
多分、お母さんと坊やの血の色だったのですから。
坊やは二三度首を振りました。身体の深奥からしんしんと募ってくる寒さに、足踏みをして、白い息を思い切り吸って、吐きました。僕は此処で何をして居るのだろう?お母さんと一緒に山越えをするのではなかったのかしら?それなのに何故、こんな場所にいるのだろう?お父さんや他の皆は、どうしているのだろう?
…お母さんは、そうだ、お母さんは、何処なんだ?
あえかな響きに、坊やは身動きしました。お母さんの声です。懐かしいお母さんの。
『ぼ・う・や。』
間違い無く背後からの声に、振り向いた彼の瞳。降る雪に打たれるセピアのトレンチ・コートの背中に広がる長い髪は、輝かしいマロン・ブラウン。もっと小さな頃から其の髪に頬ずりするのが、彼はどんなに好きだったことでしょう。
坊やは叫びました。
『お母さん!』
何時の間にかあの女も消え、兎も淡い光と共に掻き消え、風が定規で引いたが如く、白く冷たい幾多の描線の向こうに、紅い瓦屋根が見えます。木の壁が見えます。目指す山の中腹。山越えをする旅人の為の休み小屋はもうすぐなのです。相変わらず吹雪は止んでいません。
山小屋の近くで息子を見失い、彼女は此処まで追って来たのです。どんなにか心配だった事でしょう?どうした事か呼べども叫べども強く硬質な風がその声を覆い隠して、吹き散らされてしまう現象が、彼女の心配を更に煽りました。
どうにかお互いを引き摺る様にして、小屋に入って十分な食料と水と薪を見出したものの、お母さんはその時から高熱を発してしまいました。
あれから三日。窓の外の雪と風は、少し穏やかになって来たのではないでしょうか?
「僕が悪いんだ。」
坊やは繰り返しました。自分の膝を見詰めています。
「坊やのせいじゃないわ。」
喘ぎ喘ぎしながらお母さんが言いました。この会話も何度繰り返された事でしょうか?
お母さんの額には、朝露に濡れた葡萄を思わせて、びっしりと汗が浮かんでいます。病み付いた瞳には、何が映っているのでしょうか?吹雪が止んだ後の青い空?それとも?
せめて何か、栄養の付く物を。せめて、御薬を。坊やの頭の中は、気の狂わんばかりでした。持って来た御薬は直ぐに使い果たしてしまい、もう食料も残り僅かです。
自分さえ。坊やは思いました。自分さえ、我儘を言わなければ、今頃、目的地に着いている筈だった。そんな積もりでは無かったにしろ、此れは自分の責任だ。
彼の目にも、お母さんが痩せ細り始めているのが、良く見えているのです。大好きな、料理が上手で、御洋服や浴衣を仕立てるのが好きで、何時も記念日にはケーキやお菓子を焼いてくれるお母さんが。お父さんの事を誰よりも良く理解しているお母さんが。
では、どうすれば良い?どうすれば、お母さんを助けて上げる事が出来る。唯それだけで良い。他には何も望まないから。痛い程に彼は願いました。
でも、勿論返事は有りません。彼の願う言葉を聞き届ける、心の声を聞く福耳の持ち主が居ないから。いいえ、そればかりか、此処には他に誰も居ないのです。誰も。誰一人。大人も子供も。先生も小児科の御医者さんも。
「坊や。御覧なさい。雪が小止みになって来たわ。」
その声に我に帰って振り返った時、彼の瞳にガラス窓の外、点々とした遠い灯りが映じたのです。温かそうな、くっきりとした強い光。色とりどりの地上の星々。ほんのささやかな、でも、美しい、光の群。生きているかの様な。無言では無く、生きていると、言葉で訴えている様な。
それらを見た時、坊やの中にも何かが灯された様です。たった一つの、でも、確実に熱を持った明るいものが。
窓の外を食い入る様に眺めながら、坊やは聞きました。
「あれ、何あに?」
「街灯よ。此処は山の中腹だから、ずっと下の方向に見えるの。雪が、ぱらぱらとなって来たみたい。本当に明日の朝には、此処を立てそうね。」
確かに一時の降り方に比べれば、微風と言ってもおかしくない位に風が凪いで来た模様です。でも、雪は相変わらずです。
「私は大丈夫ですからね、坊や。ゆっくり休むのよ。」
その鈴を鳴らしたと言う形容にぴったりな声がだんだん小さくなって行き、やがて、今は紫がかった、さくらんぼ色の唇から、少し苦しげな寝息が漏れ出します。坊やはじっとその白い顔を見詰めていました。やっぱり汗を掻いています。幾ら拭って上げても汗を掻くのです。
再び窓の外に視線を転じて、坊やは立ち上がりました。
やがて、閂を外し、扉を寝ている人を起こさない様にとそっと開けて、坊やは外に忍び足で出て行きました。それに興味を持ったか冬の星々が、厚い雲を払い除けて、三々五々と集まりつつ、光り出しているのでした。
抜き足差し足で雪の屋外に出た坊やは、ダッシュして走り出しました。後ろも振り返らず。はあはあ、はあはあと、白い息が、断続的に夜を切り裂きます。坊やの吐く息が。
雪の冬山を、子供と若い女性が越えて行くのは無茶です。でも、彼らはやり遂げ様としました。自分達の為に。仲間の為に。誰も文句一つ言いませんでした。そして、未だ雪降る山を下って、麓の街に食料と薬を買出しに行くのは、もっと無茶です。到底人間の子供には出来ません。不可能と言うものです。
そう、人間の子供なら。
雪の上に、点々と足跡が、凍て付いた足音と共に其処に、最早迷いも何も無く、真っ直ぐに残されて行きます。見た人が居るならば、驚くでしょう。雪が直ぐに覆い隠してしまうでしょうけれど。その足跡は子供用革靴の靴底の形では、絶対に有り得ませんでした。
小さな、仔狼の足跡だったのです。彼は、毛皮の厚い狼に変身して麓の街に向かう事を決意したのでした。あれほどに、嫌っていたのに。自分が、狼男の血を引いた狼男である事を。あれほど、いやがっていたのに。
冬は寒いものだけれど、寒さは感じませんでした。夜は暗くて怖いものだけれど、怖くも有りませんでした。あの灯り。あの灯りの元に、きっと夢に見る程に希求した御薬も、新鮮な果物も在るのです。急な下り坂を一心に下る其の容子は、もしもお母さんが見たならば、お父さんにそっくりだと言うかも知れません。
雪は彼を取り巻いて、からかうかの様に、軽やかに舞っています。雪に感情等、在る訳が無いのですけれど。夢中で走っている内、街灯が近くなって来ました。何時の間にか、足元も平坦に硬くなり始めています。
おや、あれは何でしょう?彼は寒椿の茂みに飛び込んで、人間の姿に戻り、携えて来た衣服を素早く身に着けました。而して、元の地点に戻ります。
大きな音を立てて、アスファルトの道路を疾駆する物。救急車です。真っ赤なランプを回転させて、同じく紅いランプを眩しく輝かせたコンクリートの塀に重々しく入って行きました。
二十四時間体制を敷いた救急病院。
泣きながら駆け込んで来た小さな男の子が、もう一台の救急車を発進させたのは、その間も無くの事でした。
雪は、何も言わずに彼等の頭上を舞い、街を白い帳に包み込みます。
さて、それからどうなりましたって?
無事に連絡が取れたお父さんが、慌てふためいて、其の雪の街を訪れたのは、翌日の夜遅くの出来事でした。
お母さんを見舞った後、坊やの話をふんふんと頷きつつ頭を撫でながら、最後まで辛抱強く聞いたお父さんは、こう言いました。あ、そうそう、いつか、何だか遠い昔の事の様な気がします、夢に出て来た、知らない男の子の事も。
「お前は、どっちに行きたかったんだ?」
「どっちって・…。」
「その男の子は、どうだか知らんが、まあ、忠告してくれたんだし。お姉さんの方は、多分お前が好きだったんじゃないかな?」
だとしたら変わった愛情だと、坊やは思いました。
二人が座っている場所は、検査室の前の廊下、長く黒いソファでした。お父さんはいつもと変わらず、にこにこ笑いながら、日焼けした顔で坊やを見詰めています。
「えっと。夢に出て来た男の子はいつか会えたら、一緒に遊びたいな。」
坊やは足をぶらぶらさせました。つっかえつっかえ言いながら。
「そうか。兎のお姉さんは?」
弾かれた様に、ぶんぶんと首を振る息子を見て、お父さんは声を立てて笑いました。で、お父さんはただでさえ力がとても強いのですけれど、大きな手で息子の柔らかい髪をわしわしと引っ掴んで言いました。
「彼が、普通の人間でも、か?」
「うん。」
ますます御父さんの笑みが深くなります。
「よおし。いつか会える。絶対。此のお父さんが断言する。」
お父さんは自分とよく似た色の息子の頭を持って振り回さんばかりです。其の時、待っていた物が訪れました。検査室の扉が開きました。中から白い光が零れます。清潔な白衣の、お父さんより少し年上の御医者さんが出て来ました。銀縁眼鏡の奥の瞳が優しそうな御医者さんです。
二人は思わず立ち上がりました。御医者さんはにっこり笑いました。にっこり笑って言ったのです。
「もう、大丈夫ですよ。」
此の事件で一番不思議な出来事は、其の直ぐ後、出来しました。御医者さんの言葉を聞きながら、小さな英雄は、太陽に照らされた真昼のアイスクリームさながら、くたくたと眠り込んでしまったのです。
夢の中に今度は、彼は何を見たのでしょう?もしかしたら、やがて大きくなって、狼男じゃない友達と、それと狼男である友達と、一緒に、雪だるまやカマクラ、雪橇、ミニ=スキー。楽しく思い切り遊んでいる夢だったのかも知れません。
其の夢に、今度は、真っ赤な瞳の白い兎が出て来たかどうかは、さあ、聞いて見なければ、解りませんけれど。
* The End *
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