朝から雨降りで、空が暗い。
私は、溜息を付きながら、朝食の紅茶を淹れている。
友達が遊びに来ると言うのに。卓上の花瓶に飾ったガーベラの花まで、心なしか元気が無いようだ。
電話が鳴る。
案の定、友達からだった。
『もしもし。私。』
「キリカ。」
私は聞き慣れた友達の声にほっとする。少なくとも、彼女が私の部屋にいる間、二人で観るDVDや、好きなミュージシャンの久し振りのアルバムの事など考えて、心がうきうきする。
『今、駅にいるんだ。サエラ、迎えに来てよ。』
「良いけど。何で?え、傘を持っていないのぉ?!」
私は驚いて、電話の子機を取り落としかけた。ぐつぐつ煮え滾ったシチューが、ぎろっと、私を睨んだようだ。
(どじ。)
「解った。これから、迎えに行く。」
『ごめーん。家を出る時は、確かにピーカンだったのよ。晴れていたの。』
キリカの家は、私の住むアパートの有る街よりは、若干、山脈沿いである。だから、天気も変わり易い理屈だ。しかし、
〔起こってしまった事は変えられない〕との強烈な意思の持ち主であり、かつまた、〔天気が変わる前に、目的地に着ける筈だ。・・・素早く行動すれば。〕と言う類の、奇妙な運命論者である所の彼女は、結果として、今日のような日に、傘を持って家を出ないと言う、ちょっと滅多に無い行動に出る事がまま有る。
電話を切る。文句を言っている時間も惜しい。歓迎用の料理の火を止め、私は手早く、雨の街に出るべく、準備をした。
アパートの玄関を出ると同時に向かいの、二階建ての住宅からも小さな影が出て来るのを認めた。傘を咥えた、仔犬。秋田犬である。
この辺りでは、御主人の橋場氏との仲の良さと、その行儀の良さで有名な男の子である。
明るい黄色の傘を咥えて、私と並行して歩き始めた。車道に出ると、危ない。あんな小さな仔犬なぞ誰も目に止めないだろう。
私はさり気なく、ガードレール寄りに歩いて、"ヴィッキー(橋場さんちの仔犬の名前)"が、私の傘の下に入れるようにした。
駅までは、歩いて二十分ほどか。ヴィッキーは、私の傘の下を懸命に自分の傘を落とさないように歩くので、私も、何だか退屈しないで済んだ。
改札口を出た切符売り場で、キリカは待っていた。不思議な事に、薄墨色のレイン・コートを身に纏っている。彼女のぱあっとした明るい容貌に、良く似合っていた。
「傘は持っていないって言ったのに、なんでレイン・コートは着ているのよ。」
「このレイン・コートを見せたかったのよ。」
彼女は、ニコニコと笑いながら、さらに不可思議な釈明をするのであった。
私はもう一本の傘を出して、彼女に持たせた。もう一つ冷たくなりきれない私は、ここで折り畳み傘を彼女に渡すと言うきっぱりとした行動は取れないのだった。
彼女の白い傘に、私のお気に入りの青い傘。梅雨の晴れ間のような、二人になったわけだが、彼女が、今しがた出て来た改札口を見ているのに、私は気付いた。
「どうしたの、キリカ?」
「あの子。誰か注意してやらないと。」
振り向くと、今しがた学校から帰って来たと思しき、ランドセルを背負った小学生が、何とあのヴィッキーの傘を、彼の口から取り上げる所だった。
「あらら。まあ。・・・・でも、大丈夫よ。」
私は心配げな彼女を励ました。
「大丈夫って・・・・注意しないの?!」
私は眉根を寄せていたに違いない。しかし。キリカだって、不機嫌な顔になったのは確かだ。
御主人を駅で待つ仔犬から、傘を取り上げるのに成功した小学生は、これ幸いと、傘を開こうとした。ところが、なかなか、開かない。渾身の力を振り絞って傘を開こうとした所で、駅員の人がやって来て、彼に注意した。
「見ていたのなら、もっと早く、注意すれば良いのに。」
私は思わず呟いた。・・・人の事は言えないのかも知れないが。
「いらねえや、こんな毀れた傘。」
捨て台詞と共に、彼は黄色の傘を、駅員に投げ返した。そのまま、改札口へと身を翻し、駆け込もうとする。
「毀れた傘?」
今度は駅員が傘を開こうとする。大人の駅員の手によっても、開かない。
こんな故障した傘を、何故、ヴィッキーは家から持って来たのだろう。ほとほと、困り果てた頃、
ワン。
ヴィッキーが一声吼えた。
スーツを着た会社員が、改札口を潜った所であった。
「ヴィッキー。来てくれたのか。」
橋場氏が、仔犬を認めて、嬉しそうに言った。
ヴィッキーが尻尾を千切れんばかりに振って駆け寄った。
橋場氏と顔馴染の駅員さんが出て来た。黄色い傘を同僚から受け取って、恭しく進呈する。
「でも、あの傘って、開かない筈なのじゃ・・・。」
隣で、キリカが呟くのが聞えた。
街は、少しずつ、雨脚が早くなり始めている。橋場氏は、駅舎の入り口で、足元に向けて、傘を開いた。すると、傘は、難なく開くのであった。
大きな、黄色い傘が、彼らの姿を包み込む。
「さあ。帰りましょうか。私たちも。」
仲良く並んで歩いて行く、仔犬と御主人の後姿を見送った後、きょとん、としているキリカに私は声を掛けた。
「熱い紅茶とシチューが待っているわよ。キリカ。」
「あの、傘って、開いたの?!」
キリカが聞いて来た。
「ええ。持ち主専用にね。彼以外、誰が持っても、開かないようになっていたのよ。気がつかなかった?」
街の雨音は、まるで、歌声。私達は、雨が奏でる楽曲の中を、踊りながら、家路に着くのであった。
* The End *
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