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宵待人

そんな訳で、私が、あの人を待つのは、このだだっ広い四辻の角の場所なのです。
もう直、出稽古も終わりです。ですから、あの人が、この四辻で、私と出会うのも、もう直ぐなのです。暮れかけた空に、鴉が飛んで行きました。
一羽、また一羽。
高尾の空に向かうのでしょうか。
幼い頃、習った通りに。
彼は、『出張だよ。』と言っていました。格好を付けた積りなのでしょうか。出稽古は出稽古です。
私は、思わず知らず、自分の腰に下げた大刀の鯉口に手をかけました。
戦意では有りません。殺意でも無い。
武者震い、です。
今日こそは。

はった、と、睨みすえていました。
尊敬する師匠が、あの人を、です。きん、と緊張した雰囲気が流れていました。
師匠の所に、またしても、貧乏御家人侍の、そのまた小倅が、薪水の労を取る為に、足しげく通っていたのは、知っていました。良く有ることです。乏しい懐具合を気にする師匠の為に、米を何合か、麻袋にでも包んで、親が持たせたり、時には夕餉の為に、煮物を器ごと持たせたり。
町人だけが助け合うのでは有りません。武士は相見互い、です。
私がいつも通り、竹刀を背負って、がらりと師匠の住まう長屋の戸口を開けた途端、その光景が眼に飛び込んで来たのです。
彼は、私と殆ど変わらぬ年齢でした。
ただ其処に、私の入って行けぬほどに固い雰囲気が漂っていたのは確かです。
非情なほどに清冽な、真剣な空気が。
師匠は、簡単に彼の紹介を済ませました。彼も、飾り気の無い態度で、ぺこり、と頭を下げました。
薄い稽古着一枚で。
笑えば、人好きのする顔だというのは、直ぐ解りました。
私の此れまでの人生で、およそいなかった、人間の一人でした。人一倍努力し、人一倍物を考え、そして、人一倍、師匠の教えを汲み取らんと、遅くまで、私などはその頃、一文字も解らぬ蘭語の辞書に首を突っ込むどころか、風呂にでも入るようにして身体ごと漬かって、夢中で勉強をしていました。

初めて会った折の、あの、固い雰囲気は、何だったのか、私もそれなりに気がかりで、尋ねてみた所、師匠の返事は、ただ一言、
『覚悟の程を聞いてみたまでだ。』
とのお答え。
その後何年かの、世間の激流を、見事泳ぎ渡る為の覚悟の程か、と、今にして思い当たります。

でも、私の疑問には、未だ応えては下さいません。誰あろう、“あの人”は。
通りの向こうに影が射しました。見覚えのある大股な歩き方。
今こそ。
「あれ!」
私が物陰から、のそっと出て来たので、しかも照れ笑いを浮かべながらも。彼は、驚いていたようです。
紛れもないその唇に浮かぶ笑みは、疲れて帰って来たその帰路に、古い知り合いを見出した、喜びの色に相違有りません。
解っていたのです。私には。
「慎さん。どうしたんだい。四谷なんかに何の用?」
肩を叩かんばかりに、歓迎の意を表明してくれる彼に、決して私は叶わない事が。
「麟さん。」
軽く手を上げて、私は、彼に挨拶をしました。その胸元から“ターヘル・アナトミア”が落ちかけるのを、慌てて制します。
「いや、近くまで来たものだから。麟さんが、出稽古に行っている、男谷道場って、この近くだよね。」
「ひょっとして、待っていてくれたの?!」
くい、と、片手の親指と人差し指で丸を作って、上げてみせる。
いつものあの手つきで以って、ちょっとその辺で話し合おう、と誘うあの顔つきも、少年の日に出会った時、そのままです。
並んで歩きながら、私は最近思っていた事を彼に聞きました。
「薩摩と長州は、本気で戦火を交える気持ちなのだろうか?!」
「それはまだ、解らない。」
彼は、勝麟太郎は、首を振って見せました。
暮れなずむ空の下、夕焼けが、その色を濃く、暗く、深くしています。
血の色の夕焼け。そして、紫の黄昏れが。
江戸の空を覆わんとしているのを眺めながら。
「血気に逸って、馬鹿なまねをしなきゃ良いが。ね。」
「皆がみな、麟さんみたく、考えりゃあなあ。」
無益な戦いは、私だって嫌いです。しかし。降りかかる火の粉を払わずにいられる人間が、いるでしょうか。
私が彼を、待っていたのは、その疑問に答えられそうな、或いは、私と話し合ってくれそうな人間に、彼の他、心当たりが無かったからなのでした。
日が沈むと同時に、夜風が出て来たようです。
私達は、風の中を歩いて行きます。頤をもたげて。
「馬鹿言え、俺ぁ、何時だって、喧嘩っ早いよ。・・・だから、無謀な真似は、よしなってんだ。」
夜が、遣って来ようとしています。この国の夜明は多分、その向こうに。
私は、そして、友人は、その夜、静かなものにだけはなるまい、その夜に、これから、挑まんとしているのです。
命をかけて。



* The End *


        。。。。。。。2009/05/06。。。。。。。。

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